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法話

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法話--令和3年8月--

太平洋戦争の真実 その15 ―戦争の天才:石原莞爾 ―

昭和6年9月18日、満州に駐屯していた日本の関東軍は謀略で満州事変を勃発させ、5ヶ月後には傀儡国家「満州国」を建国しました。
その首謀者こそ、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)陸軍中佐(当時)でした。

当時満州を支配していたのは蒋介石率いる国民党軍23万人でしたが、石原は僅か1万そこそこの軍勢で国民党軍を打ち破り、日本国土の3倍以上もある満州を制圧してしまったのです。
しかも、本国の陸軍省や参謀本部の許可も無いまさに無謀極まりない“下剋上”的軍事行動だったのです。

しかし、この大成功の結果に本国からのお咎めもなく、事後承諾となり、石原は世界中の政治家や軍人で彼を知らない人はいない、まさに時の人となり、「戦争の天才」と称えられたのです。
現在でも欧米諸国の軍属からは山本五十六元帥に匹敵する程の有名人なのです。

石原は頭脳明晰で、順調に階級を駆け上がっていきましたが、自我が強く、やや協調性に欠けてしまう一面もあったようです。
最たる例が、東條英機との確執です。
仲違いが激しく、やがて石原は左遷されてしまうのですが、もしここで石原が東條に勝っていたら、おそらく今回の戦争は負けなかったかも知れないとさえ言われています。

満州事変の後、日中戦争を進めようとする東條に対して石原は猛反対します。
それは、石原が唱える「世界最終戦論」によるもので、世界を安定させるための最終決戦は日本とアメリカの戦いになるというのです。
そのため日中戦争に関わっていてはやがて迎える対米決戦のための十分な備えができなくなるというものでした。

石原の性格は下には優しく上には遠慮なくずけずけ物言うまさに異端児的な存在でした。
自分より5歳も先輩であった東條英機に対しても、東條は戦争のやり方も知らない男だと言って、「東条上等兵」と呼んであからさまにバカにしていました。

二人は誰もが知るまさに犬猿の仲、性格も水と油だったといわれます。
そんなことから、石原は東條から嫌われ予備役へと追いやられ、やがて更迭され参謀本部を去り軍事の一線から身を引くこととなるのです。

しかし、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗を喫した時、総理大臣だった東條は余程ショックだったのか、「戦争の天才」からアドバイスを得ようとしてわざわざ石原を呼び寄せ、「君は今後の戦局についてどう考えているんだ?」と尋ねたのです。

それに対して石原は、「戦争の指導など君にはできないくらいなことは最初から分かっていることだ。このままで行ったら日本を滅ぼしてしまう。だから君は一日も早く総理大臣をやめるべきだ。」と言い放ったのです。

やがて敗戦、日本は東京裁判で裁かれます。
この東京裁判は、戦勝国が一方的に日本を裁いた「茶番裁判」とも揶揄されていることはこれまで述べてきた通りですが、ここからは、証人として呼ばれた石原莞爾が、裁判長や検事に雄弁に立ち向かった、その歴史的エピソードです。

本来なら、石原も戦犯として裁かれてもおかしくはありませんでしたが、病気や反東條英機の立場が寄与し、戦犯指定を免れたのです。
GHQの狙いは、東條英機をA級戦犯に持ち込みたいが為、東條と特に仲が悪かった石原に「東條が戦争の根源だ」との証言と主張をさせたかったのです。

しかし、この目論見は脆くも崩れ去ります。
実は、石原は本心では東京裁判で自身も裁かれることを望んでいたといいます。
彼はその席でアメリカの非道を高らかに宣言したかったのです。

実際、戦勝国側も石原の危険性を察知して戦犯から外したとの憶測も囁かれています。
つまり、証人としての出廷なら過激にならないだろうという思惑だったのです。
しかし、そんな戦勝国側の安易な考えは吹き飛ばされてしまいます。

昭和21年5月3日、石原は東京の逓信病院に入院中に検事から事情聴取を受けます。
「この戦犯の中で誰が一番第一級の悪人か?」
これに対して、「それを聴くか?それなら答えてやろう。それはトルーマン大統領である。」

検事が、「何でそんなことを言うのか、理由を言いなさい。」
すると、石原は枕元から一枚のビラを取り出し、「これを読め。こう書いてある。『もし日本国民が銃後において、軍と共に戦争を協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を祈願して反戦体制の気運をつくれ。』

トルーマン大統領名でこれが出された。これはなんだ。国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにも拘わらず、非戦闘員を何十万人も殺した。国際法違反である。」

検事は、一番悪いのは東條だと言って欲しかったのに、トルーマンだと言われ困り、「イヤイヤ、そのビラに書いてあるのは単なる脅しじゃないか。」と言いました。

それに対して石原は、「何言ってるんだ。おどし?おどしじゃないだろう。実際このビラの通りやっただろう。広島に何をした。長崎に何を落としたんだ。このビラに書いてある以上のことをやったじゃないか。従って、トルーマンの行為は第一級の戦争犯罪である。」

翌昭和22年、石原は病気療養中のため東北山形にいました。
石原のもとに出廷命令が届くのですが、「私は病気療養中だ、行ける訳がないだろう。お前たちがこっちに来い。」と返答します。

すると、石原の要望通り東京裁判が山形県酒田市に出張して5月1日、2日と「出張裁判」が行われたのです。まさに異例です。

しかし、異例はこれだけではありませんでした。堂々と法廷に臨んだ石原に裁判長が質問します。
「証人石原はこの裁判に関して聞きたいことはありますか。」 すると、石原は答えます。

「なぜ俺を戦争犯罪者として裁かないのだ。このたびの戦争は満州事変が発端となりおこった。満州事変を起こしたのはこの俺だ。なぜ俺を裁かんのだ。」

この石原の発言に裁判長は狼狽するのみでした。
「あなたは証人としてここに呼ばれたのですから、そのような発言はなさらないで下さい。」

しかし、石原は続けます。「まだある。アメリカは日本の戦争責任を随分と古くまで遡ろうとしているようだが、一体いつまで遡るつもりなのか。」 これには、裁判長は冷静に答えました。
「日本の行った侵略戦争全てです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです。」

この裁判長の発言に対して、石原は、「ほう、ならばペリーを連れてこい ! 日本は鎖国していたんだ。それを無理矢理開国させたのはペリーだろう!」 暴論といえば暴論ですが、至極まっとうな意見です。これには法廷内が静まり返りました。

動揺を隠せない裁判長は、何とか平静を取り繕い次の質問をします。
「石原さん、あなたは日本軍の21倍の支那軍に勝つ自信があったのですか?私には到底無謀な計画のように思えてなりませんが?」

これにも石原は平然と答えます。
「勿論勝算はあるさ。君に教えてやろう。戦争は数の勝負ではないんだよ。大切なのは作戦だ。もしもこの戦争で私が指揮をとっていたのなら、裁判長、あなたの席に私が座り、ここにはあなたが立っていた筈だ。」

あまりのも堂々とした発言でした。
私が指揮をとれば、戦争は勝っていたと言うのです。
裁判長も他の裁判官もそれ以上何も言えませんでした。
何故ならは、石原が戦争の天才であることをそこにいた全員が知っていたからです。
気が付けば、裁判長は、「石原さん」と呼び、後半では「石原将軍」とさえ呼んでいたのです。
次回に続きます。

合掌

曹洞宗正木山西光寺