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仏教講座

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観音経 --その19--

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或囚禁枷鎖 手足被忸械 念彼観音力 釈然得解脱 
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
或は囚われて枷鎖に禁ぜられ、手足(しゅそく)忸械(ちゅうかい)せられんに、彼の観音の力を念ずれば、釈然として解脱することを得ん。
呪詛(じゅそ)諸の毒薬、身を害せんと欲する所の者、彼の観音の力を念ずれば、還って本人に著かん。
或は悪羅刹(あくらせつ)、毒竜、鬼等に遇わんに、彼の観音の力を念ずれば、時に悉(ことごと)く敢(あえ)て害せず。
若し悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(するど)き牙爪(げそう)怖るべきも、彼の観音の力を念ずれば、疾(と)く無辺の方に走らん。
「或は囚われて枷鎖に禁ぜられ、手足忸械せられんに、彼の観音の力を念ずれば、釈然として解脱することを得ん。」
「枷」は首枷(くびかせ)、「鎖」はくさり、「忸械」は手かせと足かせのことです。
もし、首枷や手枷足枷で捕らえられた時、観音さまにおすがりすれば、その枷や鎖から忽然と解放されるというのです。
「呪詛(のろい)と諸(もろもろ)の毒薬で、身を害せんと欲する所の者、彼の観音の力を念ずれば、還って本人に著かん。」
もし、呪(のろい)や毒薬をもって、人を殺そうとした時、ひたすら観音さまにおすがりすれば、その呪いと毒薬は呪った本人に還っていくというのです。
「或は悪羅刹、毒竜、鬼等に遇わんに、彼の観音の力を念ずれば、時に悉く敢て害せず。」
「羅刹」とは神通力で人を喰うという鬼のことです。「竜」とは竜神、蛇神ともいわれる悪竜のことです。
もし、これら悪鬼や悪竜に遭った時、観音さまにおすがりすればあえて害されることはないというのです。
「若し悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(するど)き牙爪(げそう)怖るべきも、彼の観音の力を念ずれば、疾(と)く無辺の方に走らん。」
もし、怖ろしい猛獣に囲まれて、鋭い牙や爪をたてられた時、観音さまにおすがりすれば猛獣どもは遠くの方へ走り去って行くというのです。

以上、本段では枷鎖難、呪詛毒薬難、羅刹難そして獣難の四つの災難について説かれています。
いつも申し上げていることですが、この観音経は文字の意味から理解する「事訳」と、文字を比喩と捉えて解釈する「理訳」とがあります。
特にこのお経の精神を学ぶには理訳(又は理釈)の理解が不可欠だと言えるでしょう。

ではこれら四つの災難を「理訳」から考えてみましょう。
初めの「枷鎖難」ですが、「もし、首枷や手枷足枷で捕らえられた時、観音さまにおすがりすれば、その枷や鎖から忽然と解放される」というのです。

首枷や手枷足枷とは、これらはみんな体の自由を奪う物です。
動くことも逃げることもできません。
それと同じようにわれわれを束縛する眼には見えない「もの」があります。それが「欲望」です。
お金や財産、地位や名誉、などなど、各種の欲望が羽目を外し「貪欲」になると、たちまち眼に見えない首枷や手枷足枷に掛かるのです。

欲望は人として当たり前の感情であり、否定されるものではありません。
問題は欲望が貪欲となることです。手枷足枷の実体は貪欲なのです。
心と体は自由を奪われ、ひどくなると犯罪や己自身の破滅の事態にもなるのです。

最近では小室哲哉氏の事件が象徴的なものでした。
最盛期には年収なんと20億円もあったとか。
人にはそれぞれ生まれ持った「器量」というものがありますが、彼のその天与の「器」に対して誰もが羨望の域を超え敬意と驚嘆の念を持ったものです。

しかし、わからないものです。
彼は自分の力量の「器」の域を超えてしまったのです。
貪欲に翻弄され「分」をわきまえることができなかったのです。
百億円とも言われた資産も底を尽き、なおも贅沢三昧に浸った生活レベルは落とせませんでした。
挙げ句の果てに五億円の詐欺事件を起こしてしまったのです。

これほど極端な栄光と転落の人生は希有かもしれませんが、規模の大小にかかわらずこういった事例は我々の周りにはごろごろしているのです。
「貪欲」はまったく眼に見えない手枷足枷です。
貪欲にはまり分をわきまえないとその手枷足枷はどんどん堅く強く己自身を縛ることになるのです。
「小欲知足」の金言を知るべきでしょう。

この眼に見えない首枷、手枷、足枷ですが、実は誰でもすでに大なり小なりの枷に掛かっていると理解すべきなのです。
それは人には誰でも欲望があるからです。
人の欲望にはそれぞれ程度の差があるので枷の程度も各々によって違っているのです。
ただ欲望が貪欲となるとたちまち枷が始動するというのが枷のメカニズムです。

この比喩はけっして他人事ではありません。
人である以上決して例外はないからです。
自分にもすでに眼に見えない手枷足枷が掛けられていて、欲望が羽目を外すとたちまち自由が奪われてしまうという、この認識こそ大事です。
「念彼観音力」で観音さまの心を獲得すれば欲望の枷から逃れることができるというのがこの段の趣旨です。

次にあるのが「呪詛毒薬難」です。
多くの解説書には「もし、呪(のろい)や毒薬をもって、殺されそうになった時、ひたすら観音さまにおすがりすれば、その呪いと毒薬は呪った本人に還っていく」と訳されています。
他人を呪ったり、殺害しようとする者は、結局その報いを自から受けることになるという、この報復論的な解釈には従来より異論のあるところです。

さらに、その解釈では「慈悲の精神」に馴染めないという意見もありますが、わたしはそうではなく、解釈自体が間違っていると思うのです。
従ってここからは持論になります。
それは、「身を害せんと欲する所の者」を、「自分が害されそうになった時」と訳すのではなく、「自分が人を害しようとした時」と訳すべきだと思うのです。
それによって解釈は大きく異なります。
つまり、観音さまにおすがりするのは被害者ではなく加害者だという解釈です。

呪いや害を被る者がその災難を避けようと観音さまにおすがりするのは当然のことです。
しかし、ここでは立場を逆にして、人を呪ったり害したりする立場になった人の場合と理解すべきです。
それは、人は誰でも加害者にも成り得るからです。
つまり、人がまさに「悪人」になりさがろうとした時にこそ観音さまは救くってくださるというのがこの段の趣旨なのです。

観音さまはどんな人のどんな祈りも受けとめてくださいます。
祈りの内容によって差別も区別もしないのが観音さまです。
そしてその人を敵確な方向に導いてくださるのです。
では観音さまはどのようにして「呪いの心」を救ってくださるのでしょう。

「呪い」は特定の人に対する憎悪から生まれた怨念の「心」であり、人に対して禍いや不幸を祈る行為です。
ですから「呪い」も実は"立派な"「祈り」の一つなのです。

今観音さまはどんな祈りも差別しないと申しましたのは「呪い」の祈りもそのまま受け入れてくださるということです。
一心に祈願するその憎しみの心は観音さまの心に飲み込まれ、観音さまの「心」と一つになるのです。
ということはすなわち、その「呪い」の想いは観音さまの「慈悲心」によって完全に浄化されるという結果になるのです。

以上の解釈によれば、「還って本人に著かん」とは、浄化された「心」が「本人」に還って行くという解釈になり語意の辻褄がぴったり合うのです。
この持論、奇論?愚論?かもしれませんが、わたし自身はこの解釈こそ正しいと思っています。

人生には様々な苦しみがありますが、人を呪ったり毒殺しようと思うことほど苦しく悲しい不幸はありません。
このような不幸こそ救われなければなりません。
この願いは「善」だから受け入れましょうとか。この願いは「悪」だから拒否しますとか。
観音さまにはそのような差別は一切ありません。
愛の願いも憎しみの願いもすべて受け入れてくださるのが観音さまの大慈悲心というものです。

次にあるのが「羅刹難」です。
「羅刹」とは神通力で人を喰うという悪鬼や悪竜のことです。
もし、これら悪鬼や悪竜に遭った時、観音さまにおすがりすればあえて害されることはないというのです。

理訳で言えば「毒竜」と「毒鬼」とは「色欲」と「名利欲」のことです。
色欲は火の如く燃えさかると猛狂うものです。
必ずしも年齢や学歴や見識といったものが理性の支えになるとは限りません。
痴漢行為やストーカー行為、不倫や果ては暴行殺人事件などすべてこの「悪鬼」によって引き起こされるのです。

色欲は本能的なものであり、名利欲は非本能的なものですが、どちらも人が生きている限り持ち続ける根源的な欲望です。
誰でも当たり前に持っているこの欲望ですが、この二つの欲望に歯止めが利かなくなるとたちまち悪鬼と悪竜に襲われるのです。

しかし、悪鬼や悪竜というのは、外にいてわれわれを狙っているのではなく、実はわれわれの心の中に巣くって、虎視眈々と狙っているのです。
そんな悪鬼や悪竜の餌食にならないためには絶えず観音さまに見守られていることです。
見守られるには「念彼観音力」とお唱えすることで観音さまと一心になることです。

最後が「悪獣難」です。
もし、怖ろしい猛獣に囲まれて、鋭い牙や爪をたてられた時、観音さまにおすがりすれば猛獣どもは遠くの方へ走り去って行くというのです。

「悪獣」とは何のことでしょう。
これもまたわれわれの心の中に巣くっているさまざま「煩悩」のことです。
悪鬼や悪竜と同じようにわれわれの外にいて狙っているのではなく、その実体はわれわれ自身の煩悩とエゴにあるのです。
それは貪欲であり、瞋(いかり)であり、愚痴(おそかさ)であり、虚栄心であり、無恥であるのです。

それらの煩悩もまた油断すると「悪獣」に豹変するのです。
われわれの心の中には猛獣が棲みついていて絶えず蠢いていることを知るべきです。
人はふと魔が差すことがあります。その「魔」こそ悪獣なのです。
そんな悪獣の餌食にならないためにはいつも観音さまのお側に居ることが一番の安心です。
その合い言葉もまた「念彼観音力」なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺