千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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仏教講座

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観音経 --その21--

真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩炎
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
真観清浄観、広大智慧観、悲観、及び慈観、常に願ひ常に瞻仰(せんごう)すべし。
無垢清浄の光ありて慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。
悲体の戒は雷の如く震い、慈意の妙は大なる雲の如し。甘露の法雨を注ぎて、煩悩の炎を滅除す。
諍(あらそ)い訟えて官処を経、怖畏(ふい)なる軍陣の中にありても、彼の観音の力を念ずれば、(もろもろ)の怨(あだ)悉く退散せん。

観音さまの「観」の字は、真理を観(み)るという意味です。
真観、清浄観、広大智慧観、悲観及慈観を観音さまの「五観」と言います。
われわれが物事を対処する時、さまざまな見解や認識によって判断し行動します。
その見解や認識が間違っていたら当然間違った判断による行動が伴うのです。
どんな事物にも真理があります。その真理を間違えないために必要なものがこの「五観」なのです。

まず初めの「真観」とは、真理を透観する心の眼です。
仏教の真理を表しているのが諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印です。
これに「一切皆苦」を加えて四法印とすることもありますが、これらはすなわちこの大宇宙の真理実相を示した言葉です。
別名「法界」とも言いますが、法界は完全調和の完全無欠の世界です。
これを"大円鏡智"と言い、よく○(大円)で表したりします。

次の「清浄観」とは、清らかな心の眼のことです。
"清らかな心眼"とは偏見やわだかまりのない純粋無垢な心のことです。
人の心はどうしても主観に左右されます。その主な原因は自己愛、肉親愛による偏愛です。
自己や肉親に対する愛情は人として当たり前のことです。しかしそれこそ偏愛なのです。

今問題になっている政界の世襲制の問題も、まさに肉親に対する偏愛によるものです。
神社仏閣など今日では子供が後継者として当たり前になっていますが、宗教法人である以上原則世襲制ではありません。
偏愛が後継者を肉親に限ってしまっているのです。
世襲といえばあの北朝鮮がいま後継者問題で世界に注目されていますが、なんでも長男の正男氏の暗殺未遂があったとか。
独裁者の偏愛は兄弟親族ですら粛正してしまうのです。

小泉元総理のような"立派"な人でも、聖職者といわれる坊さんや神主さんでも、独裁者やテロリストでも、人である以上偏愛は当たり前のことなのかもしれません。
しかし偏愛こそ私利私欲の根源なのです。
そんな偏愛のまったくない心こそが「清浄観」なのです。

「広大智慧観」とは、文字通り広大な智慧のことです。
"智慧"は"智恵"とは違います。
智恵は人間の感性から見た正しい"道理"ですが、智慧は仏教の覚りから観た正しい"真理"のことです。人の「道理」と仏の「真理」との間には雲泥の開きがあります。
広大とは大宇宙ということです。すなわち「智慧」とは三千大千世界の真骨頂のことです。

「悲観」とは、抜苦(ばっく)であり、人の苦しみを取り去ることです。
「慈観」は与楽(よらく)であり、人に楽を与えることです。
この「慈観」と「悲観」とが合わさって「慈悲」になります。
よく観音さまは慈悲の仏さまとも言われますが、それはこの抜苦と与楽の願いを聴いてくださる仏さまだからです。

「常に願ひ常に瞻仰(せんごう)すべし。」
瞻仰(せんごう)の「瞻」(せん)という字は仰(あお)ぎ視(み)ることです。
以上これらの五観を「常に願い、常に瞻仰すべし」とお釈迦さまは説いておられるのです。
五観は観音さまが常にお持ちの"真実"ですが、それは観音さまだけの特権ではありません。
観音さまを心から信仰することによって誰でも自らその五観の徳にあやかることができると説かれているのです。

次に「無垢清浄の光ありて、慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。」と続いています。
これまでの観音さまの「五観」をほかの言葉で表したのが「無垢清浄の光」です。
一切のとらわれのない心、智慧と慈悲に満ちた心、完全無欠の大円鏡智の心こそが「無垢清浄の光」となるのです。

「慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。」
「慧日」とは「智慧の太陽」のことです。
その「太陽」から放された無垢清浄の光こそこの世のすべての闇を破るのです。
闇とは人の世の煩悩であり迷いであるのです。
この「闇」こそが人の世の苦悩や不幸の元になるのです。
その厄難の元である「災いの風火」を鎮めるものが「慧日の光」なのです。
「慧日」が観音さまのお姿といってもよいでしょう。

「悲体の戒は雷の如く震い、慈意の妙は大なる雲の如し。」
「悲体」とは観音さまの「体」のことです。
「慈意」とは観音さまの「意」(こころ)のことです。
前に慈悲の悲は「与楽」であり、慈は「抜苦」だと述べました。
観音さまの実体は慈悲そのものであるということです。

「戒」は「いましめ」です。諸悪を防ぎ諸善を生ずるにはまず「戒」を守ることからです。
人が苦しむとき、その多くの原因が破戒なのです。
人に苦しみを与えないために、自分自身が苦しまないためにもまず仏戒を守る必要があるのです。
戒の下にこそ本物の「楽」があるのです。
われわれ悩める衆生は本物の楽を得るためにはまずこの「雷の如く震う」厳しい「戒」を守るべきなのです。

「甘露の法雨を注ぎて、煩悩の炎を滅除す。」
「慈意」は「抜苦」だといいました。
観音さまの「こころ」は妙たる雲の潤いの如く広がって「甘露の法雨を注いで、煩悩の炎を滅除」してくださるのです。

「甘露」とは、もともとインドの神々が飲む霊薬のことだったそうです。
その味は蜜のように甘く、苦悩をいやし、不病不老の滋養にもなったそうです。
喉を潤わせる最高の滋味であったことから仏教にも採り入れられました。
仏の教えを甘露の雨に喩え「法雨」といいます。
観音さまの慈悲は雷の如く厳しくもあり、優しい甘露の法雨の如く我々悩める衆生に注がれるのです。

人に危害を加えそうになったとき、婦女子に対して邪淫の気持ちが湧いてきたとき、人の物を盗りたくなったとき、「南無観世音菩薩」と至心に称えれば、観音さまの法雨が注がれて一切のよこしまな気持ちは滅除されるのです。
燃えさかった煩悩の焔はたちまち消滅し、観音さまは間違いなく慈悲の法雨を我々に注いでくださるのです。

「諍(あらそ)い訟えて官処(かんじょ)を経(へ)、怖畏(ふい)なる軍陣の中にありても、彼の観音の力を念ずれば、衆(もろもろ)の怨(あだ)悉く退散せん。」
われわれ人の世に争い事は尽きません。
兄弟喧嘩や夫婦喧嘩にはじまり、友人から隣人にいたるまで争い事は尽きません。
それが民族や国家間の問題ともなれば紛争や戦争にもなりかねません。
そうなれば間違いなく多くの犠牲者がでます。

争いは全て主張のぶつかり合いから生じます。
それぞれが"義"を主張しますが、双方に譲歩や妥協がないと官処(裁判所)に訴えたりします。
それでも治まりがつかないと憎悪の感情は増幅され、最悪の場合暴力や殺人、民族や国家間に至っては紛争や戦争にまで発展しかねないのです。

争いも民族や国家間の問題ともなれば真っ先に不幸を被るのは一般民衆や国民です。
日本の隣国に北朝鮮という、ならず者国家があります。
今のこの時代に考えられない恐怖国家が現実に存在するのです。
その独裁者によって万民が地獄に陥っています。
国民はほんとうに哀れ気の毒としか言えません。
隣国はもとより世界中が困り果てています。

今核実験やミサイル発射で虚勢?を張っていますが、制裁決議に対して戦争も辞さないと怒っています。
戦争は自滅行為だと十分わかっている筈ですが、常識など通用しない国だけに実際自暴自棄になったら何が起こっても不思議ではありません。
それにしてもあの国の不幸は一体いつ終わるのでしょう。
拉致問題はいつ解決するのでしょう。
いずれにしろ体制の終焉もそう遠くないことだけは確かです。
因果は必ず証明されるものですから。

しかしなにより残念なことはあの国には観音さまがいないことです。
観音さまだけではありません。
困窮に瀕している国民にとってイエスキリストもマホメットも縁がないのです。
なぜなら独裁国家には一切の宗教がないからです。
独裁者自身が神であり絶対の存在だからそれが当然なのです。

しかしそれは同時に独裁者自身にも神も仏も付いていないということです。
独裁者が神になることも神のご加護を受けられることも絶対に有りません。
神も仏も信じる心がなければ存在しないのです。
いくら闇世を照らす万能の観音さまであっても"招聘"がなければ出向くことはできないのです。
すべてお見通しの観音さまだけにさぞ忸怩(じくじ)たる思いでいらっしゃることでしょう。

この娑婆世界に争いはつきものです。
とはいえ相手の存在を否定し抹殺しようとする怨みこそ最大の不幸です。
戦争はその最たるものです。
互いに殺すか殺されるかという戦争に大儀名分はありません。
そんな最悪の事態にならないように、腹が立ったとき、相手を憎いと思ったときこそ、「南無観世音菩薩」と一心称名するのです。
そうすれば間違いなく怨みの心は鎮まります。まさに観音さまの威神力です。

合掌

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