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遺教経 --その8--

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仏遺教経 - 八 -


汝等比丘、昼は則ち勤心に善法を修習して時を失せしむること無かれ。
初夜にも後夜にも亦た廃すること有る勿れ。
中夜には経を誦して以て自ら消息せよ。睡眠の因縁を以て、一生空しく過ごして、所得無からしむること無かれ。
当に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。
睡眠すること勿れ。諸の煩悩の賊、常に伺って人を殺すことは怨家よりも、甚し。安んぞ睡眠して自ら警寤せざる可けんや。
「汝等比丘、昼は則ち勤心(ごんしん)に善法を修習して時を失せしむること無かれ。」
修行者たちよ、昼間は仏法を学び修行することに励み、時間を無駄にしてはならない。
「初夜(しょや)にも後夜(ごや)にも亦た廃すること有る勿れ。」
初夜(18時~22時まで)でも、後夜(2時~6時)でも、仏道の修行を怠ってはならない。
「中夜(ちゅうや)には経を誦して以て自ら消息せよ。睡眠の因縁を以て、一生空しく過ごして、所得無からしむること無かれ。」
中夜(22時~翌朝2時)には、とくに眠気を催す時間であるから読経するもよし、休息するもよし。 ただ、睡眠は五大欲望の因縁の一つだと心して、惰眠を慎み人生を無駄にすることがあってはならない。
「当(まさ)に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。」
無常というものはまさに火のごとく一切のものを焼き尽くすものであるから、それを肝に銘じ、早く自らを解脱せしめなければならない。
「睡眠すること勿れ。諸の煩悩の賊、常に伺って人を殺すことは怨家よりも、甚(はなはだ)し。安(いずく)んぞ睡眠して自ら警寤(きょうご)せざる可(べ)けんや。」
惰眠すべからず。三毒はじめ諸々の煩悩という賊は、つねに人の命を奪おうとしている。その力は復讐の怨念よりも強いものである。惰眠して自ら警戒することを怠ってはならない。

この段で釈尊が主唱していることをまとめますと、世は諸行無常であるから時間を無駄にしてはならないということ。
惰眠こそ時間の無駄であり修行の妨げであり煩悩の温床にもなる。
不幸の元凶である煩悩を断つためには、時間を惜しみ修行に励み一刻も早く悟りを開くことである。

キーワードは、無常、惰眠、煩悩、修行そして悟りです。
まさに仏教の目指すところの釈尊の思いが凝縮されていると言っても良いでしょう。

禅宗ではどこの寺院にも木版(諸行事に撞木で叩かれる木の版)がありますが、そこに必ず書かれているのが次の句です。

白大衆(だいしゅにもうす)
生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
各宜醒覚(おのおのよろしくかくすいすべし)
慎勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)

釈尊は、まず人間には誰でも五欲があると説かれています。
財欲、色欲、食欲、名欲、睡欲です。なかでも睡眠欲は、本来、身体や精神の休養のためにあるのですが、限度を越えてしまうと怠け心に変わってしまいます。
人はとかく睡眠の煩悩に負けると、かけがえのない尊い時間を無駄にしてしまいます。

釈尊は、無為に日々を暮らすことを「惰眠」(だみん)として戒めています。
惰眠は、(なまけて眠ること、のらくらして働かないこと、活気のないこと)と辞典は教えていますが、怠けて眠っていることも、怠けて為すべきことをしないことも怠惰です。
これを放逸(ほういつ)といって戒めています。

釈尊の十大弟子の一人に釈尊の従弟にあたる方でアヌルッダ(阿那律尊者)という弟子がいました。
ある日彼は釈尊の説法の最中に居眠りをしてしまいました。
説法が終わると釈尊は、彼の心のゆるみは、惰眠がそうさせたのだ、と厳しく叱りました。

アヌルッダは、釈尊の叱責を聞くと、姿勢を調えて懺悔して、「今日より以後、私は睡眠を断ちます」と誓い、常坐不臥(じょうざふが)、といって常に坐禅をしたまま決して横になって寝ない不眠の修行を決意します。

それを続けた結果、彼はついに重い眼病に罹ってしまったのです。
釈尊は、医師のジーヴァカにアヌルッダの眼の治療を命じました。
ジーヴァカは、彼が不眠の難行を止めない限り治療は不可能である旨を釈尊に報じました。

これを知った釈尊は、アヌルッダを諭されました。
「一切のものは、食によって活きるのだ。耳は声を食とし、鼻は香りを食とし、舌は味を、眼は眠りを食としている。さらに悟りは不放逸を食としている。アヌルッダよ、刻苦に過ぎることはよいことではない。懈怠(げたい)は避けねばならないが、刻苦もまた避けねばならない。中道こそ、また汝の道でなければならない」と。

しかし一徹なアヌルッダは自分の信念をつらぬき、ついに両眼とも失明してしまいます。
彼は、釈尊の諭しに従わないことが教えに背くと知りつつも、それ以上に自分の失態への懺悔から発心求道への信念を貫かれたのです。

そして、ついにアヌルッダは悟りを得たのです。
肉眼は失明しましたが、心の眼が開かれたのです。
経典はこの事実を「アヌルッダは天眼を得た」と伝えています。

天眼とは、諸仏が具える五眼の一つといわれるもので、三界を見通せる力であり、特に人間の生死の相を見通せる能力といわれます。
五眼には、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五つがあります。
かくしてアヌルッダは、「天眼第一」と称され十大弟子の一人になりました。

「まさに無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。」
釈尊は、無常の火が世間をことごとく焼き尽くしてしまうことを念頭において、早く解脱の道を求めなさいと説いています。
そのための最大の障害が惰眠なのです。

ご開山道元禅師は、26歳のとき、中国の天童山で修行をしていました。
その坐禅中に道友の一人が居眠りをして師の如浄禅師に厳しく叱咤される声を聞いて、道元禅師は大悟されたといわれます。
道元禅師自身まさに師の一喝により惰眠から眼が覚めたのです。

最勝の善身を徒にして露命を無常の風に任すこと勿れ。無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし・・・(道元禅師)

無常のこの世の中にあって、万物は絶え間なく流転して止みません。
身も心も一刻一刻と生滅変化してゆくのです。
無常の存在である自分自身を心に念じて、早く悟りを開き救われなければなりません。
救われることとは、煩悩や執着から解放されることです。

「諸の煩悩の賊、常に伺って人を殺すことは怨家よりも、甚(はなはだ)し」
煩悩という名の賊は、常に隙をみてわれわれを殺そうと狙っているのです。
その想いは恨みをはらそうとする怨念よりも怖いものだというのです。

実際人間が犯すさまざまな罪の根源は、まさに煩悩によるものと言わざるをえません。
人間のさまざまな不幸の多くはその煩悩によっても引き起こされるのであるから、人は幸福であるためには先ず煩悩を克服すべきなのです。

世の中詐欺、傷害、放火、殺人など日常茶飯事です。
実際その原因のすべては人の心の煩悩から生まれた、妬み、怨恨、欲望そして無智によるものです。
まさに「煩悩の賊」の仕業であり、その怖さは復讐心よりも恐ろしいのです。

青酸連続殺害事件、川崎中一生徒殺害事件、淡路島5人惨殺事件、大阪連続放火事件、巡査による女性殺害、28歳女性の交際男性殺害・・・等々、最近だけでも極悪非道の事件は枚挙に遑がありません。
どれもこれもみな煩悩から生まれた怨みや欲望心の結果なのです。

彼らにとって待っているのは贖いのための惨めな人生でしかありません。
場合によっては死刑の恐怖に怯え続ける毎日です。
まさに地獄の日々が待ち受けているのです。
そんな例はごくごく限られた人だと侮ってはいけません。
どんな人でも煩悩がある限り油断大敵なのです。

すべては煩悩という賊をコントロールできなかった結果です。
ですから、幸せになるか不幸になるかはコントロール次第といえるのです。
そのコントロールの力を養うことこそ修行なのです。

修行とは、釈尊が説かれた四諦八正道や十二因縁などの教えをよく学び、これを身につけるための実践行動がすなわち修行なのです。
そして「早く自度を求むべし」と言われます。
つまり、「早く自らを解脱せしめ、悟りなさい」ということです。

確かに釈尊は、一刻も早く悟りを開くべきだと言われますが、ここで大事なことは、修行と悟りは別物ではないという認識です。
つまり修(修行)と証(さとり)は表裏一体なのです。
ちなみにその主旨がタイトルとなっているのが曹洞宗の経典「修証義」なのです。

釈尊が涅槃の臨場で教示されたのは、まさに修行の意義であったのです。
つまり、何よりも大事なことは、真摯に修行することこそ悟りであるということです。
これが今回の結論です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺