千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

曹洞宗 正木山西光寺

  • ホーム
  • 西光寺のご紹介
  • 永代供養
  • 水子供養
  • ご祈祷
  • お問合わせ
仏教に関するQ&A

仏教に関するQ&A

疑問・質問受付中!

皆さんからの仏教やお寺に関する疑問・質問を募集しています。
質問投稿フォーム、またはメールで投稿してください。

埼玉県 50歳代の男性からのご質問

和尚様
一つ質問をさせてください。
私は近くの曹洞宗のお寺で毎週参禅会に参加させていただいております。
曹洞宗の坐禅は只管打坐、始めも終わりもなくただ座ることだと理解しております。
その中で「祈り」というものをどう捉えていったらよいのかわかりませんでした。
いや、今でもわかりません。

曹洞宗のお経の中に観音経がありますがそれが坐禅とどう結びつくのかわかりません。
御寺のHPに観音経の解説があり「特に現実の苦しみから救われたいと願うならば、心から自己の全存在をかけて至誠にその御名を称えなさいということです」と書かれてあるのをみて驚きました。
私の理解であれば念仏系の宗派の教えではないかと思ったからです。
坐禅と祈り、観音経がどうしても結びつきません。
同じような質問を曹洞宗宗務庁にぶつけてみましたが未だにお答えはいただいておりません。
もし何らかの形でお教えを賜れれば幸いです。

答え

ご質問にお応え致します。
坐禅と祈りの関係がどうしてもご理解できないとのことですね。

あなたのご質問は多くの人が持っている至極もっともな疑問だと思います。
でも禅の世界から言えば初歩的な問題といえるでしょう。

確かに観音経は一見祈りを説いたお経です。
しかし、観音経はただの祈りと奇蹟を説いたお経ではありません。
さとりの方法が説かれてあるのです。

あなたは「観音さま」と「祈り」と「あなた自身」の間にどうしようもない区別や差別感を持っているのです。
ズバリ言えば、その区別感、差別感こそが「迷い」であり「煩悩」なのです。
でもこれは普通のことですよ。
しかし坐禅をする人である以上、是非この「普通」から脱却したいものですね。

多分あなたは観音さまという存在を「神様」というような認識でいるのではありませ んか? 観音さまに祈るということは神様に祈るというようなイメージを持ってはいませんか?

それがまったくの間違いです。仏様や観音さまや地蔵さまは神様ではありません。
では仏様とは何でしょう。仏様とは全宇宙そのものなのです。
これが説明ではなかなか難しいのです。だからこそ自分自身で体験し体得するしかないのです。

その方法にいろいろあるのです。
その一つが坐禅であり、その一つが念仏であり、祈りであるのです。
次にあなたが持っている大きな問題は、坐禅と祈りはまったく別ものだという観念です。

あなたは坐禅は自力であり、祈りは念仏という他力であるとの認識ですね。
確か「常識」ではそのとおりかも知れません。が、だとしたら自力と他力の違いは何ですか。
何処が違いますか?

違いがあると思っているその認識こそ「煩悩」であり「妄想」です。
この認識である以上「真実」にはまだまだ「天地の差」がありますね。
結論を言えば、坐禅と祈りは全然矛盾していませんし、坐禅と祈りは別物ではないということです。
どうです。驚きでしょう?

お釈迦さまはなぜ他力の教えである阿弥陀経、無量寿経などを説かれたと思いますか。
「法話・極楽」のページにも書いてありますが、入り口が一見違いますが向かっているゴールはまったく同じ「悟り」なのです。
悟りに自力も他力の別は無いのです。すべて同じゴールに続いているのです。

お釈迦さまの狙いは只一つ「観音さまとはあなた自身ですよ」ということを知ってもらいたいのです。
つまり「観音さま」と「あなた」と「祈り」の間に何の区別も分別も無くなった時こそ観音さまの「本当の姿」「実体」が分かった時であり、それを「悟り」と言うのです。
観音経を理釈で解釈するとはそうゆうことです。

一切の区別や差別のない世界、それを感得した時が「悟り」であるといいましたがその様子は「般若心経」にしっかり説かれています。
「ほとけ」「浄土」「涅槃」「彼岸」「極楽」の世界、「安楽の世界」の出現です。

一心に観音さまを称名するということは、ちょうど「無字の公案」に向き合うことと同じです。
「無ー」「ムー」「MU-]と称えることは一生懸命に「南無観世音菩薩」と称えることとどこが違いますか? (ちょうど今月の「法話」は「無字の公案」を予定していますので是非看てください。)

「観音さま。観音さま。観音さま・・・・・・」と無我夢中で称えることで自分が観音さまになるのです。
そして自分が観音さまと同じだと感得した時こそ「無字の公案」が透過した時です。
すなわち坐禅も祈りも同じだということになりますね。

だから只管打坐は難しいのです。ただボーと坐っていても駄目なのです。
「非思量底を思量せよ」とはだだ何も考えないというのではないのです。
考えない「ところ」をちゃんと「考える」のです。
それが「現成公案」を追求することなのです。
しっかりした方法と目的で座らなければ時間の無駄になるということです。

合掌

Copyright © 2005-2016 曹洞宗 正木山西光寺. All Rights Reserved