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平成18年7月20日 愛知県 女性からのご相談

このまえ他界した祖父にもう一度会いたいんです。どうしても会いたいんです。

西光寺住職です

他界されたおじいさんに是非もう一度お会いしたいとのことですね。
あなたにとって大切なすばらしいおじいさんだったんですね。
亡くなった時のショックはさぞ大変なものだったとおもいます。

人はいつかは寿命が尽きて亡くなるとは分かっています。
いつかはお別れしなければならないことは分かっています。
理屈ではよく分かっていますが、愛する人が亡くなってみてはじめてその現実を「体験」するのです。

今まで考えてもみなかった大きな試練です。
そのショックと悲しみで一時生活が狂ってしまう人もいます。
中には喪失感で心理的療養を受けなければならない人もいます。

人生で最大の「問題」は「死」です。
自分自身の「死」が一番で、次が愛する人の「死」です。
しかしときには自分自身のこと以上に愛する人の死を受け止めてしまうこともよくあることです。

その人の居ない人生なんて考えられなくなってしまうのです。
生きる希望と生き甲斐をなくしてしまうことです。それは本当の不幸です。
その悲しみと辛さは本人しかわかりません。
しかしそういった試練を乗り越えていくのもまた人生なのです。

あなたにもこの試練を是非乗り越えて一段と逞しくなって欲しいと思います。
私の話が少しでもそんなあなたの参考になればと願っています。
さて、あなたの願いである「おじいさんに会えるかしら」のご質問ですが、結論から申し上げて「会える」のです。間違えなく会えます。

ただそれを科学的に証明することは難しいので、宗教として「信じて」いただくしかありません。
(もっとも私の持論で言えば科学的でも何でもなく『会える』のですが、ここでは 理屈っぽくなるので申しません)

まず「会える」と言う意味を考えてみましょう。
亡くなるということは肉体の消滅ですから 亡くなってしまった以上「現物」のその人に会うことはできません。

あとはその故人の「魂」の問題です。
まずその魂が「ほとけさま」になったと信じることです。
その仏様に会う方法がすなわち「供養」なのです。
ですからその「供養」の意味をしっかり捉え理解することにあるのです。

まず亡くなった人に対しての最高の供養とは何でしょう。
献花、献灯、供物、読経、回向、焼香などいろいろございますが、一番のご供養は亡くなった方の人生を真似ることです。
優しかった、親切だった、明るかった、気配りが上手だった、気品があったなどなど、挙げればキリがないかも知れません。

あなたにしか分からないすばらしい点もあったでしょう。
そんなすばらしい故人の生き方、考え方の中から一つでも二つでも(多いほど結構なことですが)あなた自身のこれからの人生の中に是非採り入れていっていただくきたいと思うのです。

それはこれからのあなたの人生の「糧」になる筈です。
それは糧になるばかりではありません。
故人があなたの心の中に生きている意味になるのです。
少し難しいかも知れませんがこの点が重要なのです。

亡くなると涅槃の世界に入ります。
それは一切が一つの世界であるという空の世界ですから、そこは生も死もありません。
般若心経にも「不生不滅」と説かれています。
空間を超越していますからあなたと故人は一緒の世界になるのです。

それはあなた自身には自覚は無いと思いますがおじいさんは確実にあなたの中で生きているということの意味です。
人は「想う」ことによって生前以上に「一体」になれる世界が「涅槃」の世界なのです。
その一体感は故人を「想い」、「真似る」ことで一層確実なものになります。

次に故人の見地から考えてみましょう。
おじいさんは自分の孫や子がそんな自分を真似ていことを知ったらどうでしょう。
絶対に嬉しいですよね。
よく「学ぶ」という言葉は「真似る」という言葉から来ていると言われています。

我々お坊さんはお釈迦様、仏様の真似をして「修行」するのです。
お釈迦様の生き方と考え方に全幅の信頼を置いているからです。
お釈迦様の発見された真実の世界の「法則」を学んで少しでも自分の人生を豊かにさせていただき、さらにその御教えを多くの方に伝えたいと願っているのです。

子供は親や学校の先生を観て「真似」て「学んで」いるのです。
あなたに愛されたおじいさんはあなたのすばらしい「先生」だったのです。
イヤ、これからも先生で居続けるのです。
これからはれっきとした仏様とした「先生」なのです。

仏様に対する最高のご供養とは仏様の「真似」をすることなのです。
その内容が書いてあるのが「お経」です。
お経を読むのはお坊さんだけの特権ではないのです。
読経とは、仏前で仏様の説かれた教えを復唱し、御教えに従い、「私たちも幸せになります。どうぞご安心ください」とお誓いするのがすなわち「法事」なのです。

私事ですが、わたしは法事の時にはできるだけお経本を配り一緒に読経していただくことにしています。
仏様はその姿をみて安心するのです。
仏様が一番「心配」されているのは子孫、衆生のしあわせなのですから。

ですから仏様ご先祖様を安心させるのが「法事」であり「供養」なのです。
仏様の安心があってこそ我々の「幸福」があるのです。
仏教の真実の世界とは「生」と「死」を超えた世界なのです。
その世界を「涅槃」と言います。

あなたのおじいさんは今その涅槃の世界で確実に「生きて」いますよ。
あなたも将来いつかは確実にその涅槃の世界に往くわけです。
その再会の時、おじいさんから「よくよく供養をしてくれてどうもありがとう」と言われるかもしれません。
「おじいさんこそ私にすばらしい人生を教えてくださってありがとう」と感謝の言える生を送りましょう。

自分にほんとうに愛すべき人のいたことを。
愛すべきその人と共に生きられたことを。
その人のために悲しめたことを。
いつか、全て「感謝」の気持ちでうけとめられる日がくることを願っています。

合掌

曹洞宗正木山西光寺