遺教経 --その13--
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仏遺教経 - 十三 -
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。
知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。
知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽なりとす。
不知足の者は天堂に処すと雖も、亦た意に称わず。
不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。
知足の人は貧しと雖も而も富めり。
不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為めに憐愍せらる、是れを知足と名づく。
今回は八大人覚二つ目の「知足」のお話です。
前回の「小欲」では、人は欲が少ないほど迷いや悩みが少なく、安らかで幸せな人生が送られるというお諭でした。
今回の「知足」もほぼ同じ意味の、「足る」ことを知ることで感謝と喜びの人生が送れるというお諭です。
「欲」は人間にとって、生きて行くための活力であり、幸せへのモティベーションです。
人間にとって欲が無くなった時がまさに死ぬ時と言っても過言ではありません。
欲は人にとってそんな大切なものです。
しかし、そんな大切なものですが、まさに両刃の刃、扱いが非常に難しいのです。
それは人が幸福になるのも不幸になるのもまさに「欲」の扱い次第だと言えるからです。
ですから釈尊は、この八大人覚の中の最初に「小欲」と「知足」を持ってきて、その扱いを縷々諭されているのです。
京都の臨済宗龍安寺に、「吾唯知足」(われただたることをしる)と刻んだ有名なつくばいがあります。
「自分はただ偏に、知足以外の生き方はしない」という決意を表したものですが、これは倫理や道徳を超えた悟りの真実から得られた幸福の証なのです。
「知足」の悟りなしで人は決して真実の幸福を担保できないという、釈尊の渾身の説法です。
それだけに八大人覚の最初に「小欲」「知足」の2徳が繰り返し説かれているのです。
拙僧は務め柄、多くの葬儀に携わってきました。
そして、多くの相続トラブルを目の当たりにしてきました。
葬儀を境に家族関係が一変する事態が多々あります。
何より悲しんでいるのは故人に違いありません。まさに親不孝の所業です。
お互いが「知足」の心をもって臨めれば、そこに争いは起きません。
「不知足」の心のせいで、一番身近で愛すべき存在の親族が、一瞬のうちに、この世で一番の憎しみの対象になってしまうから恐ろしいことです。
これを不幸と言わずに何と言うのでしょう。
この「知足の教え」こそ、幸福のためのナンバーワンの条件と言っても過言ではないでしょう。
合掌