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遺教経 --その13--

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仏遺教経 - 十三 -


汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。
知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。
知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽なりとす。
不知足の者は天堂に処すと雖も、亦た意に称わず。
不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。
知足の人は貧しと雖も而も富めり。
不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為めに憐愍せらる、是れを知足と名づく。
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。
修行者たちよ、もしすべての苦悩から逃れたいと思うなら足ることの法を観察するがよい。
知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。
知足の世界は、豊かで楽しく、変わった事も起こらず、穏やかな無事平穏である。
知足の人は地上に臥すと雖も、猶(な)お安楽なりとす。
知足に生きる人は、地上で起きたり寝たりするような貧しい生活でも心安らかである。
不知足の者は天堂に処すと雖も、亦た意(こころ)に称(かな)わず。
知足を知らない者は、たとえ高貴な生活をしていてもなお不服・不満足である。
不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。
足ることを知らない人は、どのように富んでいてもなお不満であるから貧人と変わらない。
知足の人は貧しと雖も而も富めり。
しかし、足ることを知る人は、お金や物が無くても不満を洩らさないから金持ちと同様である。
不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為めに憐愍(れんみん)せらる、是れを知足と名づく。
足ることを知らない人は、いつも様々な欲望に引きずりまわされ、あくせくしているので、足ることを知る人から気の毒がられる。これが知足の徳である。

今回は八大人覚二つ目の「知足」のお話です。
前回の「小欲」では、人は欲が少ないほど迷いや悩みが少なく、安らかで幸せな人生が送られるというお諭でした。
今回の「知足」もほぼ同じ意味の、「足る」ことを知ることで感謝と喜びの人生が送れるというお諭です。

「欲」は人間にとって、生きて行くための活力であり、幸せへのモティベーションです。
人間にとって欲が無くなった時がまさに死ぬ時と言っても過言ではありません。
欲は人にとってそんな大切なものです。

しかし、そんな大切なものですが、まさに両刃の刃、扱いが非常に難しいのです。
それは人が幸福になるのも不幸になるのもまさに「欲」の扱い次第だと言えるからです。
ですから釈尊は、この八大人覚の中の最初に「小欲」と「知足」を持ってきて、その扱いを縷々諭されているのです。

汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。
今現在の自分に満足することです。
満足すれば自分が生かされているすべての恵みに感謝することができます。
足ることを知る人は、毎日、感謝しながら生きることができます。それを幸福と言います。
それに反して、足ることを知らない人は、不平不満を言いながら生きていることになります。
同じ人生を生きてゆくのに感謝して暮らす人と、不平不満で暮らす人とでは雲泥の差があります。
この違いは心の持ち様にあるのです。
欲望には個人差がありますが、欲に溺れたり、欲に目が眩んだりして不幸になるのは絶対に避けなければなりません。
知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。
富という意味は、物が豊かで金持ちで、立派な邸宅に暮らすということではありません。
人生でもっとも大切なことは、足ることを知り、感謝の気持ちをもつことです。
感謝の中には不平や不満の心は一切存在しません。その喜びの生活を「富」といいます。
知足の人は地上に臥すと雖も、猶(な)お安楽なりとす。
足ることを知る人は、たとえ、路上生活や野宿生活であっても、そこに満足出来れば富んでいるのです。
釈尊は一切の地位や財産を捨てて出家しました。
それはすべてを捨てたのではなく、真実の幸福を求めたからです。
本当の富とは何か、ほんとうの幸せとは何かという、真実を求めた旅立ちだったのです。
やがて解脱して如来となられ、経済的には世界一貧しいながら、世界で一番の「心の富」を得られたのです。本当の富とは、地位や財産や名誉などには関わりのない心の世界にあることを悟られたのです。
不知足の者は天堂に処すと雖も、亦た意(こころ)に称(かな)わず。
足ることを知らない人は、いつも不平不満の気持ちがあり、どんな高級邸宅に住み、どんな贅沢な生活をしていても満足しません。
まさに貧しい生活をしていると言わざるを得ません。
何事においても満足と感謝のない人は不幸な人です。
不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。知足の人は貧しと雖も而も富めり。
「知足」の説法はなお続きます。
足ることを知らない人は、どんなにお金や財産があっても、どんなに贅沢な暮らしをしていても、ほんとうは貧しいのです。
「自分はこれで充分だ」という満足の一線を引かない限り、不満の気持ちは消えません。
「欲しい欲しい」の気持ちこそ貧しさの象徴です。
一方、足ることを知る人は、お金や物に関係なく心が満ち足りているので正に豊かな生活を送ることが出来る「富んだ人」なのです。
不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為めに憐愍(れんみん)せらる、是れを知足と名づく。
足ることを知らないということは、欲が深いということです。
人より多く儲けたい。栄光ある地位に就きたい。名声を得たい。
すでに十分な財産や地位にある人が、自らの欲望に溺れ、賄賂罪を犯し、警察に捕まるという事例は日常茶飯事です。それを見て、「気の毒」だというより「憐れみ」の情を覚えます。

京都の臨済宗龍安寺に、「吾唯知足」(われただたることをしる)と刻んだ有名なつくばいがあります。
「自分はただ偏に、知足以外の生き方はしない」という決意を表したものですが、これは倫理や道徳を超えた悟りの真実から得られた幸福の証なのです。

「知足」の悟りなしで人は決して真実の幸福を担保できないという、釈尊の渾身の説法です。
それだけに八大人覚の最初に「小欲」「知足」の2徳が繰り返し説かれているのです。

拙僧は務め柄、多くの葬儀に携わってきました。
そして、多くの相続トラブルを目の当たりにしてきました。
葬儀を境に家族関係が一変する事態が多々あります。
何より悲しんでいるのは故人に違いありません。まさに親不孝の所業です。

お互いが「知足」の心をもって臨めれば、そこに争いは起きません。
「不知足」の心のせいで、一番身近で愛すべき存在の親族が、一瞬のうちに、この世で一番の憎しみの対象になってしまうから恐ろしいことです。
これを不幸と言わずに何と言うのでしょう。
この「知足の教え」こそ、幸福のためのナンバーワンの条件と言っても過言ではないでしょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺