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法話

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法話--令和3年12月--

太平洋戦争の真実 その19 ―占守島の奇跡 ―

キスカ島の奇跡の救出から2年後、昭和20年8月15日に終戦を迎えます。
翌16日には大本営が戦闘行為の即時停止を命じました。
ところが、18日未明、ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、千島列島最北端の占守島(しむしとう)に攻め込んできたのです。

全くの奇襲攻撃に不意を突かれた日本軍でしたが、敵の上陸を死守しました。
これが占守島の戦いです。

もし、この占守島が占領されていたら、日本は北海道だけでなく、東北地方までもソ連の及ぶところになっていたかもしれないのです。
まさに日本を分断国家から救ったと言っても過言ではない戦いでした。

今回はそんな占守島の「奇跡」の戦いのお話です。
そもそもソ連軍が攻めてきた理由は、終戦後の占領地域を巡ってアメリカとの交渉のもつれからでした。
当初のソ連軍による占領予定には、北海道の約半分までもが計画されていたのです。

スターリンは、ヤルタ会談の密約で、参戦の見返りとして、樺太と北方領土を占領する約束をルーズベルトから取り付けていたのです。
ところが、ルーズベルトが急逝し、その後のトルーマンが北海道北部の占領を反対したのです。
それを不満としたソ連が勝手に北海道の占領を目指して攻めてきたのです。

8月17日、トルーマン大統領からスターリンに充てた書簡です。
「ソ連軍の千島列島占領は容認するが、北海道は拒否する」
これにスターリンは回答せず、ソ連軍に南樺太、千島侵攻を命令します。
これを受けて、ソ連軍は突然ロパトカ岬から猛烈な長射程砲撃を仕掛けてきたのです。

ソ連軍が攻め込んできたとき、日本はポツダム宣言を受諾して武装解除していました。
侵略に気付いた第5方面軍司令部である樋口季一郎中将は、自衛の為に戦うか、終戦後の戦闘行為を禁じていた大本営の指示に従うか悩んだ結果、樋口は独断でソ連軍への反撃を命じたのです。
ここでも樋口が奇跡を起こしたのです。

「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」
それを受けて、池田末男大佐率いる戦車第11連隊は直ちに出撃します。
池田は、満州から占守島に転属された連隊長で、騎兵学校の教官の出身で、部下から大変慕われた指揮官でした。

8月18日、午前2時、濃霧の中、国端崎の監視所から急電が入ります。
「海上にエンジン音聞ゆ」「敵上陸、兵力数千人、国籍不明!」

占守島竹田浜に陣を敷いた歩兵282大隊の村上大隊長は命令。
「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」

報告を受けた幌延島の第91師団本部から命令。
「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落せ。歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ」

18日、午前3時半、敵主力部隊が竹田浜に上陸、四峰山に到達。282大隊が敵に包囲される。
報告を受けた池田末男連隊長が訓示。
「我々は大詔を奉じ家郷に代える日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかない。 そこで皆にあえて問う。諸氏は赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕持って民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。

赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ」
全員が歓声を上げて両手を挙げる。
「ありがとう」と連隊長。
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」

池田連隊長は、先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがる。
それに30数台の戦車が続く。

18日、午前6時20分、戦車隊、ソ連軍が包囲する四峰山麓に到着。
連隊長は、学徒出陣の少年兵に命令。「お前は、生きて帰れ」

6時50分、池田連隊長より師団司令部あて打電。
「池田連隊は、四峰山の麓にあり、士気旺盛なり。池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る」

午前中いっぱい、四峰山から竹田浜にかけて、激烈な白兵戦が展開されます。
午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めました。戦いは4日間続き戦闘は激烈を極めました。

しかし、戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出しました。
日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名。

第91師団は敵ソ連軍を圧迫し、海岸付近に釘着付けにしたのです。
それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めたのです。
まさに日本軍の圧勝でした。

ソ連共産党機関紙「イズベスチャ」の記事です。
「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日は、ソ連人民の悲しみの日である」

午後3時、停戦交渉始まる。ソ連側は日本軍の武装解除を要求。
終始優勢を保っていた日本軍でしたが、最終的には、停戦協定に応じ、21日、軍令によって武装解除し降伏することになったのです。
なんと理不尽なことではありませんか。

その後、ソ連軍は千島列島を南下し、日本軍を次々に武装解除。
一方、南樺太を占領したソ連軍は、国後島、択捉島を占領し、日本軍を武装解除。
ソ連軍が千島列島を占領している間に、GHQが北海道に到着し、アメリカが北海道を占領したのです。
その結果北海道はソ連からの占領を免れたのです。

武装解除され捕虜となった日本兵は、しばらくの間兵舎の整備、越冬準備の薪の収集作業に使役されていましたが、10月中旬に目的地も告げられぬままソ連船に乗せられシベリアへ送られたのです。

その数57万5千人に上るとされます。
厳寒環境下で、満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要され約5万8千人が死亡したと言われます。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するもので、まさに「非人道的な行為」に他なりません。
不可侵条約を一方的に破り、しかも終戦後に北方領土を占領し、さらに非人道的なシベリア抑留などを行ったロシアに、日本人が良いイメージを持つ筈がありません。

最近の調査で、ロシアに対する日本人の好感度は13.6%とかで、対中国の22.1%を凌ぎ最悪です。
しかし皮肉にもロシア人の日本に対する好感度は60%もあるとか。
そのくせ北方領土返還には83%が反対だとか。

いやはや、彼らには自責の念も無ければ、返還する気などサラサラありません。
それにしても、そんな国に北海道、東北地方が占領されなくて本当によかったと思います。

樋口中将の決断と池田末男連隊長の勇猛な戦いが「奇跡」と言われる所以です。
彼らが居なかったら日本は韓国と北朝鮮のような分断国家になっていたかもしれないのです。

戦後、北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車大隊は、占守島の戦いにおける陸軍戦車第11連隊(通商:士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称し、74式戦車、90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいます。

合掌

曹洞宗正木山西光寺