千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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仏教講座

仏教講座

観音経 --その4--

若復有人。臨当被害。称観世音菩薩名者。彼所執刀杖。尋段々壊。而得解脱。
若(も)し復(ま)た人あり、当(まさ)に害せらるべきに臨んで、観世音菩薩の名を称せば、彼(か)の執(と)る所の刀杖、尋(つ)いて段々に壊(お)れて、解脱することを得ん。
若三千大千国土満中。夜叉羅刹。欲来悩人。聞其称観世音菩薩名者。
是諸悪鬼。尚不能以。悪眼視之。況復加害。
若し三千大千国土の中に満つる、夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)・来りて人を悩まさんと欲するも、其の観世音菩薩の名を称する者を聞かば、是(こ)の諸々の悪鬼、尚悪眼(あくげん)を以て之を視ること能(あた)わず、況(いわん)や復た害を加えんをや。
設復有人。若有罪。若無罪。忸械枷鎖。検繋其身。称観世音菩薩名者。
皆悉断壊。即得解脱。
設(たと)い復(ま)た人あり、若しくは罪あり、若しくは罪なきも、忸械枷鎖(ちゅうかいかさ)に其の身を検繋(けんげ)せられんに、観世音菩薩の名(みな)を称せば、皆悉く断壊(だんえ)して、即ち解脱することを得ん。

最初の句は七難の内の4番目の剣難を説いたものです。
ここは表現としては案外判り易いと思います。
「もし人が刀杖によって殺害されようとしたその場合においても、観音様のみ名を一心に称えるならば、その刀杖は折れてしまうだろう。」と、まさに奇蹟としか思われない観音様のお力が説かれています。

古来中国においては深く観音信仰にあった者が無実にも拘わらず斬首の刑に遭い観音様の威神力によって救われたという話が幾つも伝わっているようです。
この日本においても日蓮聖人の「竜の口の奇蹟」は有名であります。

念仏謗法のために、竜ノ口の刑場において依智三郎直重によってまさに斬られようとしたそのとき、海より煌煌たる光が直重の眼を射て、彼はついに日蓮聖人を斬ることができなかったという。
正に法華経の行者であった日蓮聖人に起こった奇蹟として伝えられています。
(最近の説ではこの「奇蹟の伝説」を否定する学者も多くなっていると聞いてもいますが、ここではその真偽は問いません。ただ、当時鎌倉時代においてはどんな権力者であろうとも絶対神聖性を認められていた僧侶の首を刎ねるということは考えられなかったということです。)

では、刀で斬ることができないとは一体どういうことでしょうか。
事訳では、「正に斬られようとしているその時心から成りきって観音様のみ名をお称えすることによってその刀は折れてしまい斬られることはない。」と言っています。

これを、理訳で考えてみましょう。
理釈に「奇蹟」はありえませんので、ここをしっかり理解できるかどうかが勝負です。
お釈迦様の真意をどこまで伝えられるかに私の力量が問われていると言ってもいいでしょう。(ちっと気負いすぎでしょうか。)
以下がその私の愚論ですが、多分ほかのどの学者先生や解説書にも見あたらない解釈だと思いますよ。

一心に観音様を称えるということで無心になります。無心は無我です。
観音様の無相と一致する世界です。そこで観音様と一体になれるのです。
無相は無為でその本質は実体の無い空の世界です。
空の世界が涅槃の世界でありこの全宇宙が完全一体となった瞬間です。

一心に観音様を称名すればその世界に入れるのです。
が、実は元々我々の本性は観音様と同体なのです。
ただそれに気づいていないだけなのです。
それに気が付いた時を見性と言います。見性成仏です。

自分が宇宙と一体になったそこには観音様もあなたもそしてあなたを斬ろうとする刀もその他何も無い世界が出現するのです。
対立観念のない絶対一如の世界、その世界があなた自身になるのです。
それを「解脱」と言っているのです。

すなわち、あなた自身が観音様であり同時にあなた自身が刀になるのですからあなたは絶対にその刀に斬られることはないのです。ちょっと難しくなってしまいましたかね。
難しいかも知れませんがこれが「真実」なのです。
比喩でも誇張でもまやかしでも空想でも願望でもそして慰めでもないのです。

事釈で見ると「奇跡」にしか思われませんが、理釈で言えば真実を説いているのです。
お経はすべて「真実」を説いたものに他ならないのですから・・・。
観音経は単なる現世利益のお経ではないのです。
強いて私の持論を言わせて頂ければ導入に方便を透しての「解脱」を説いたお経と申したら良いかも知れません。

次に「若し三千大千国土〜復た害を加えんをや」までを考えてみましょう。
「この世界中に一杯いる夜叉や羅刹のような鬼がやって来て、我々を悩まそうとしても、観世音菩薩の御名を称えるならば、彼らは悪眼をもって我々を見ることや、危害を加えることができなくなる。」という、ここでは七難のうちの五番目の悪鬼難を説いたものです。

「三千大千国土」とはこの全宇宙を指します。
仏教の世界観に須弥山(しゅみせん)説があります。
これは仏の宇宙観を説明したものですが中心に須称山という高い山があり、そのまわりに四大州という世界があり、この一つの世界が千個集まって小千世界と言います。
この小千世界が千個集まって中千世界と言い、その中千世界がさらに千個集まって大千世界となります。

その大千世界がさらに三つ集まったのが三千大千世界なのです。(三千×千という説もあります。) とにかくなんとも膨大な世界ですが、これで驚いてはだめです。
何故ならこれは阿弥陀仏一仏の教化する範囲の世界に過ぎないのです。
阿弥陀仏の他に薬師仏やその他の仏のそれぞれの統括する世界があるのですから。
要はつまり無限の宇宙を表したものなのです。

仏教のステージは単に地球上に止まらないのです。
その教えは宇宙の果てまで見据えているのです。地動説や天道説など論外なのです。
たとえば五十億光年彼方のある星で誰かが(生物?)お釈迦様と同じ悟りを開いているかもしれないのです。この真如の教えが実に2500年以上もの昔にお釈迦様によって始まったという事実にただただ驚嘆せざるを得ません。

この三千大千世界には悪鬼であり食人鬼である夜叉や羅刹が一杯に充満していると言っています。
夜叉は悪鬼であり、羅刹は人を殺しその肉を喰う悪鬼のことです。
ではこの夜叉や羅刹の正体とは一体何でしょう。
現代の人間社会を見てください。

例えば親の勝手での子供の堕胎や虐待などが減ることなく増えているのが現状です。
「外面如菩薩、内心如夜叉」(げめんにょぼさつ、ないしんにょやしゃ)が沢山います。
外見は人間の姿をしていても、心は夜叉、悪魔にほかならないのです。
われわれのこころの内部にはいつでも悪魔と夜叉がいて、隙あらば人間をけだものにしようと狙っているのです。

観音様の御名を一心に称えるならば、それらの悪鬼や夜叉の悪眼や危害などからも逃れることが出来るのだというのです。
さて理訳で考えてみましょう。
その悪鬼と夜叉は実は我々自身の中にいるのです。
外でもない我々自身の心の中にこそその悪眼を持った悪鬼と夜叉はいるのです。

そしてその悪眼の本質は抑制の利かなくなったエゴなのです。
そのエゴが自己本位や自分さえ良ければという利己主義を生んでいるのです。
その悪鬼や夜叉の悪眼の元のエゴこそ断たなければならないのです。
そのエゴを断ち切り本来の善眼に目覚めさせてくれるのもまた一心称名の「念彼観音力」なのです。

次が六番目の枷鎖難です。
囚難とも言われ、罪を受け捕らえられ、あるいは無実の罪のために刑具に繋がれることです。
その刑具が忸械枷鎖です。忸は手かせ、械は足かせ、枷は頸かせをいいます。
いずれも罪人をしばる木製の道具のことです。「若は罪あり、若は罪なきも」とあります。
罪有る人も罪の無い人も心から観音様の御名を称えれば同じように救われ、そして解脱できるというのです。
理訳で考えてみましょう。
我々を縛っている忸械枷鎖とは何でしょう。それこそ煩悩なのです。
我々人間は無尽の煩悩という枷鎖にがんじがらめに縛られ繋がれているのです。
忸は愚痴、械は怠惰、枷は執着と考えてもいいでしょう。

制御の利かない煩悩によって放縦な無気力な無責任な人間が多くなると、その社会の荒廃は進むばかりです。
貪瞋痴の三毒の増大した人間社会は餓鬼、畜生がはびこり、文字通り修羅場の世界になってしまうのです。

残念ですが現実にそのような修羅場の現場や社会が毎日のようにニュースで報道されています。
只今ちょうどテレビでホリエモンが逮捕されたというニュースが大々的に報じられているところです。
こころが失われた現代を象徴している事件だと思います。

「観世音菩薩の名(みな)を称せば、皆悉く断壊(だんえ)して、即ち解脱することを得ん。」 観世音菩薩の御名を心から称えればたちどころに枷鎖は解けて解脱することができるというのです。
われわれ人間は眼に見えない煩悩という枷鎖にがんじがらめに縛られ悶え苦しんでいます。
その自分を縛っているものが他でもない自分自身の煩悩・自分勝手のエゴに他ならないことを自覚している人が少ないのです。少しでも早くその事実に自ら気付くことです。

そして観音様を信じて一心に観音様をお称えするのです。
誠心からの称名で観音様と同体になれるのです。
その「同体」から文字通り己を縛っているものから解き放されるのです。
観音様と同じ無相になることで「解脱」できるのです。

さて、それにしてもここでちょっと引っ掛かるのは「罪有る人も」のところです。
「罪無き人が救われるのは当然だが、罪有る人までも救われるというのはおかしい・・・」ということになりそうですね。

しかし観音様の慈悲は大悲です。どんな人でも過去を問いません。
今が本物の「一心称名」でありさえすればどんな人でも観音様の大悲に中にとり込まれるのです。
親鸞聖人の「悪人正機」の理論がここにあるような気がします。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のことばは実に有名ですね。

どうです。観音様の慈悲心の偉大さが解りますか。
くどいようですが、「一心称名観世音菩薩」で自分が観音様と一体になります。
そこに本来の自己が現れてくるのです。これを真如実相と言い、また涅槃と言います。
これが解脱であり真の自己解放なのです。

合掌

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