千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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仏教講座

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遺教経 --その9--

仏遺教経 (9)
煩悩の毒蛇、睡りて汝が心に在り。
譬えば黒蚖の汝が室に在って睡るが如し。
当に持戒の鉤を以て早く之を屏除すべし。
睡蛇既に出でなば、乃ち安眠すべし。
出でざるに而も眠るは是れ無慚の人なり。
慚恥の服は諸の荘厳に於て、最も第一なりとす。
慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。
是の故に比丘、常に当に慚恥すべし。
暫くも替つること得ること勿れ。
若し慚恥を離るれば、則ち諸の功徳を失う。
有愧の人は、則ち善法あり。
若し無愧の者は、諸の禽獣と相異ること無けん。
「煩悩の毒蛇、睡(ねむ)りて汝が心に在り。」
人の心の中には煩悩という恐ろしい毒蛇が宿っている。その惰眠の毒蛇が汝の心に睡っているのだ。
「譬(たと)えば黒蚖(こくがん)の汝が室に在って睡るが如し。」
それは譬えていえば、黒い蚖(マムシ)があなたの部屋にいて眠っていうようなものだ。
「黒蚖」とは、黒いまむしのこと。その毒蛇が自分の部屋にいて隙を狙っているのに、どうして安心して眠ることができるであろうか。
「当に持戒の鉤(かぎ)を以て早く之を屏除(びょうじょ)すべし。」
まさに戒律を守っていくための鉄の鉤をもって、この毒蛇たちを一刻も早く払いのけなければならない。
「持戒の鉤」とは、持戒は戒律であり、鉤は先の折れ曲がった金属製の器具をさしています。
「屏除」とは、退ける、とか除くという意味です。
「睡蛇(すいじゃ)既(すで)に出でなば、乃ち安眠すべし。」
惰眠という恐ろしい蛇が人の心の中から出て行ってくれて、初めて安らかに眠ることができるのだ。
心の中にある惰眠という欲望は煩悩であり毒蛇のように恐ろしいのです。
「出でざるに而(しか)も眠るは是れ無慚(むざん)の人なり。」
そんな蛇が心の中にいながら、なお惰眠するのは恥を知らない人である。
「無慚の人」とは、恥知らずの人のことです。
「慚恥(ざんち)の服は諸(もろもろ)の荘厳に於て、最も第一なりとす。」
どんなにきれいで立派な服装よりも大事な服装は「恥ずかしい」という着物なのである。
「慚」も「恥」も同じ「ハズル」という意味です。
「もろもろの荘厳」とは、人が身に着けるきれいな服装にはいろいろあるということです。

「荘厳」とは、飾り装うこと、荘装厳飾の意味で、一般的には仏身、仏徳を現す美しい装飾品を指します。
又は、仏堂、仏像などを美しく飾ること、またはその飾りをいいます。
慚恥(恥を知る)の服は、人間が着飾る服装のうちで最高の服であるという。

人間は裸でいることを恥ずかしいと思うから、服装で纏っているけれども何よりも大事な着物は、「恥ずかしいという着物」なのです。
心の中に恥ずかしいという心を持つことが、どんな美しい服装で着飾るよりも、人の心を飾っていく、心の醜さを隠していく一番大事な着物だということです。

「慚は鉄鉤(てっこう)の如く、能く人の非法を制す。」
「恥じる」ということは、鉄製のカギのように人の悪行を抑え込む力がある。
人には煩悩があり、誰でも油断すると欲望にまけて良からぬことをしたり、我儘の心を制することが難しくなったりします。

しかし、たとえ人が見ていようがいまいが、こんなことをしたら恥ずかしいという気持ちがあればこそ己の煩悩に負けない、悪いことのできない人になれるのです。
己の欲望のままに生きたいという、利己的、短絡的な心を制するのは、「恥ずかしい」という良心があってこそです。

「是の故に比丘、常に当に慚恥すべし。暫(しばら)くも替(す)つること得ること勿(なか)れ。」
だから、修行者たる者、いつもこの恥を知る心こそ忘れてはならない。僅かの間でも恥じる心を止めてしまってはならない。
寝ても起きても、立っても座っても、歩いても、人様が見ていても見ていなくても、心の中に、こんなことをしたら恥ずかしいという心を忘れてはいけません。
「若し慚恥を離るれば、則ち諸の功徳を失う。」
もし恥を忘れると、それまで積んできた多くの善い功徳さえもすべて失われてしまう。
今までの折角の良い功績に留まらずに罪さえ作ってしまうことにもなるのです。
「有愧の人は、則ち善法あり。若し無愧の者は、諸の禽獣と相異ること無けん。」
恥を知る人こそ善行を心掛けるようになる。恥を知らない人はもろもろの動物と少しも変わらない存在になってしまう。

「有愧の人」とは「恥を知る人」という意味であり、「無愧の者」とは「恥を知らない人間」という意味であり、「禽獣」とは人間でありながら道理や恩をわきまえない畜生のことを指します。

以上、本段では、先段に続いて惰眠がもたらす害をとりあげ、釈尊は、比喩をもって教示されています。
私たちの心の中には、煩悩という恐ろしい毒蛇が宿り惰眠を貪ろうとしているのです。
隙さえ見せれば、いつ噛みついてくるかわかりません。決して油断できないのです。

ですから、戒律という鉤をもって、この恐ろしい黒い毒マムシを退治して追い払わないことには、夜も安心して寝られないのです。
仏道修行を妨げる恐ろしい惰眠という毒蛇が心の中から出て行って、私たちははじめて落ち着いて真に安眠できるのです。

その恐ろしい毒蛇を追い出すこともしないで惰眠をむさぼるのは、まったく恥を知らない人です。
恥を知ることを服に例えれば、人にとってどんなきれいな服よりも大事な服であり荘厳なのです。

人は、恥ずかしいという気持ちがあるからこそ、誰も見ていなくとも、悪いことをしないのです。
煩悩に負けないで悪いことを制御できるのも、恥ずかしいという心の服を着ているからです。
だから人にとって恥という装いこそ最高に美しい着物であり、その「恥の心」を決して忘れてはなりません。

恥ずかしいという良心を失うと、今まで積み重ねてきた善行を台無しにしてしまい人格まで失ってしまいます。
私たちは恥じを知る心を持つことで善良な行動ができるのです。
人間が動物と違って優れているのは、恥の心を持っているからです。
だから、人は誰でもその心を失うことになればただの動物に成り下がってしまうのです。

本段の主題はズバリ「恥を知れ」ということです。
「恥」とは、「過失や失敗をして面目を失うこと。名誉を汚されること。」と広辞苑にはあります。
人は自己の面目や名誉が保たれることで誇り(プライド)を持って生きられるのです。

人が動物と違うのは人には誇りという尊厳があり、その尊厳が汚されることで「恥」となるのです。
しかしその感覚には個人差があります。
例えば、同じ過ちを犯してもそれを恥と感じる程度には個人差があります。
同じように「善行」に対してもそれを名誉と思う程度にも個人差があります。

そういった感覚の差はなぜ起こるのかというと、それは価値観によるものと考えられます。
人は価値観に基づいて信義、信念を持ち、それが人生観となります。
ですから人にとって価値観こそ大事です。
正しい価値観であれ歪んだ価値観であれ、それなりの人生観が形成されるからです。

つまり「恥」と「名誉」の認識はまさに価値観に基づいて決まるのです。
たとえば、ヤクザの世界では盃によって序列が決められたり、入れ墨が威厳の象徴だったり、親分の罪を肩代わりすることが最高の名誉だったりすることが彼らの世界での価値観です。

そんな歪んだ価値観の世界だからこそ、親分のタマ(命)を取られることが最高の恥であり、敵の親分のタマを取ることが最高の名誉なのです。
最近日本最大の暴力団山口組みの分裂騒動がありましたが、彼らなりの価値観から起こったことです。

暴力団の存在意義を極限まで突き詰めれば、意に沿わない人間は殺すという一点です。
離脱組が新団体を設立するなら、メンツにかけて制裁し、殺戮し、つぶさねばならないのが彼らの世界の常識であり、それに叶うことが「名誉」であり、叶わないことが「恥」となるのです。

人の価値観は、生来の性格に躾、教育、経験などが加わり培われるものです。
価値観は人生観となり人格が形成されますが、ひとたび形成された人生観を変えることは大変難しいのです。

ですからよほどのことが無い限り「人生観が変わる」ことはありません。
しかし余談ですが、先日テレビで「世界キテレツ人生」なる番組があり、そのなかで前科6犯のヤクザが務所の中で目にした聖書の一文「神は悪人を殺さない」という言葉によって改心し、出所後神学校に入りついに牧師の資格を得て、私設の教会を設立し、今では多くの信者に慕われているというのがありましたが、これぞまさに「よほどのこと」だったと言えるでしょう。

そんなよほどのことが無い限り、ヤクザにはヤクザの人生観があり、政治家には政治家の、警察官には警察官の、ドロボウにはドロボウの、金持ちには金持ちの、ホームレスにはホームレスの、牧師には牧師の、もちろん坊さんにも、それぞれに"立派"な人生観があるのです。

しかし、娑婆世界の"立派"が正しいとは限りません。
人は自分を取り巻く環境からそれなりの常識や倫理、信念を身に着け人生観を確立しますが、歪んだ人生観からは歪んだ信義、信条しか生まれません。
しかも、歪んでいることに自からはなかなか気が付かないのです。

そんな歪んだ信念の持ち主が国政に携わっていたら、国民にとってはまさに因果なことです。
憲法の理念と国民の意思を無視して強引に国家の安全体制のあり方を変えた人。
絶対である憲法を蔑ろにしてまで貫こうとするそんな歪んだ信念の人に国の運命を託してしまってよいのでしょうか。それこそ「恥を知れ」です。

釈尊が言う「恥を知れ」というのは正しい信念を持ちなさいということです。
間違った信念のもとには幸福も平和も決して訪れません。
正しい信念とは宇宙絶対の真理である四諦八正道の教えに則ったものです。

仏教の目指すところは、まさに真理に目覚め「正しい信念」を持つことに他なりません。
幸福は正しい信念のもとにこそ現れる…それを信じることです。

合掌

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