千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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仏教講座

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遺教経 --その5--

仏遺教経 (5)
汝等比丘、已に能く戒に住す。
当に五根を制して、放逸にして五欲に入らしむること勿るべし。
譬えば牧牛の人の杖を執りて之を視し、縦逸にして人の苗稼を犯さしめざるが如し。
若し五根を縦にすれば、唯五欲の将に崖畔無して制すべからざるのみにあらず、亦た悪馬の轡を以て制せざれば、当に人を牽いて坑陥に墜さんとするが如し。
劫害を被るが如きは苦一世に止まる。
五根の賊禍は殃累世に及ぶ、害を為すこと甚だ重し。
慎まずんばあるべからず。是の故に智者は制して而も隨わず。
之を持すること賊の如くにして縦逸ならしめざれ。
假令之を縦にするとも、皆な亦た久しからずして其の磨滅を見ん。
「汝等(なんだち)比丘、已(すで)に能(よ)く戒に住す。当(まさ)に五根を制して、放逸(ほういつ)にして五欲に入らしむること勿(なか)るべし。」
「すでに能く戒に住す」とは、これまで話してきた戒律の意味とその大切さを十分理解されたと思うということ。
「まさに五根を制して」の五根とは、眼・耳・鼻・舌・身の五官(五感)であり、それを正しく制御して、ということ。
「放逸にして五欲に入らしむること勿るべし。」
五欲とは、五感から生じる色欲、声欲、香欲、味欲、触欲のことで、野放図にその欲に耽ってはならないということ。
「譬(たと)」えば牧牛(ぼくご)の人の杖(つえ)を執りて之を視(しめ)し、縦逸(じゅういつ)にして人の苗稼(みょうけ)を犯さしめざるが如し。」
「牧牛の人」とは、牛飼いのこと。「杖を執りて之をしめし」とは、杖をつかってそれを見せながら、ということ。
「縦逸にして人の苗稼を犯さしめざるが如し。」
「縦逸」とは、放逸と同じで、勝手気ままにすること。
「苗稼」とは、田畑の作物のこと。
「若し五根を縦(ほしいまま)にすれば、唯五欲の将(まさ)に崖畔無(がいはんのう)して制すべからざるのみにあらず、亦た悪馬(あくめ)の轡(くつわずら)を以て制せざれば、当に人を牽いて坑陥(こうかん)に墜(おと)さんとするが如し。」
「若し五根を縦にすれば」、もし五感をしたい放題にさせれば。
「ただ五欲のまさに崖畔無して制すべからざるのみにあらず、」
「崖畔無し」とは、果てしのないということ。
「制すべからざるのみにあらず、」とは、制御することができないだけではなく。
「亦た悪馬の轡を以て制せざれば」
悪馬とは暴れ馬のこと。轡(くつわ)をしっかり持って抑えておかなければ。
「当に人を牽いて坑陥(こうかん)に墜(おと)さんとするが如し。」
坑陥は穴のこと。暴れ馬に人は牽かれて穴に落ちこんでしまうようなものだ。
「劫害(こうがい)を被るが如きは苦一世に止まる。」
劫害とは、脅かされ被害を受けることで、賊の被害は自分一代だけで収まるということ。
「五根の賊禍(ぞくか)は殃(わざわい)累世に及ぶ、害を為すこと甚だ重し。慎まずんばあるべからず。」
五根という賊による禍は自分だけではなく子孫累代にも及ぶ。
その被害は甚大であり、慎む上にさらに慎まなければならない。
「是の故に智者は制して而(しか)も隨(したが)わず。之を持(じ)すること賊の如くにして縦逸ならしめざれ。假令(たとい)之(これ)を縦(ほしいまま)にするとも、皆な亦た久しからずして其の磨滅を見ん。」
「是の故に智者は制して而も隨わず。」
だから、智慧のある者は五根の欲望を制御して、さらにその誘いに自分からついていくことはない。
「之を持すること賊の如くにして縦逸ならしめざれ。」
それはちょうど害を与える賊をしっかり捉えて勝手気ままな振る舞いをさせないようなものだ。
「假令之を縦にするとも、皆な亦た久しからずして其の磨滅を見ん。」
たとえ、五官である眼、耳、鼻、舌、身による五欲のしたい放題にさせても決して長続きするものではない。
第一肝腎の身体自体やがて滅んでしまうのだから。

本段では、釈尊は前段までの戒律生活の意味をふまえ、人はとにかく「まさに五根を制すべし」だと力説されています。
本段の主旨はまさにこの一言に尽きるでしょう。あとはその「説明」です。

五根とは、眼、耳、鼻、舌、身のことであり、環境の物事を感知する「五感」であり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの刺激を受ける「五官」です。この五官の刺激を通して人はみな「五欲」を起こすとされます。

この肉体の「五根」に心の「意」すなわち「意識」を加えたものを六根といいます。
「六根清浄お山は晴天」などといって山登りをしますが、大自然の中で六根をきれいにして、人間が生まれた時から持っている清らかな仏心に立ち返り山頂を目指すというものです。

釈尊はここで六根と言わずになぜ「五根を制す」と言われているのでしょか。
それは「五根」によって生まれる「五欲」をまず問題だと捉えるからです。
五欲とは、すなわち色欲、食欲、睡欲、財欲、名欲の五つで、「意」はあとから付いてくるものです。

このうちの色欲、食欲、睡欲の3つは動物としての本能と言えるでしょう。
あとの財欲と名欲の2つは人間界特有のもので動物にはない、人間だからこそ所有するところの欲望と言えるでしょう。
いずれにせよ、これらの欲望を制御することが最大の問題なのです。

たしかに、欲望は生きるためには必要なものであり、これを全面否定することはできません。
ただ、人の迷いや不幸の多くは欲望に起因しているのです。
その欲望のすべては五根(官)に始まり、五欲の暴走が不幸の始まりであることを学ぶのです。

人の幸せはまさに五欲を制御し、煩悩を鎮め、人が本来持っている仏心(本心、真心)を如何に働かせるかに掛かっているのです。
釈尊は、「人間は皆生まれた時から清くきれいな仏心を持っている」ことを悟られました。
その「仏心」に目覚めるためには、まず戒律を守り、「五根を制して」五欲に溺れてはならないと比丘たちに力説されているのです。

たとえば、牧畜をする人はいつも杖を使って、牛が脇見をしないよう、まっすぐ目的地に行くように注意指導していますが、仏道を修行する者も、決して他人の田や畑に入って作物を荒らすことのないように、悟りの道に向かって脇目もしないでまっすぐ精進しなければならないと諭されています。

もし、この五根を勝手気まま好き放題に振る舞わせておくと、財欲、色欲、食欲、名欲、睡欲は限りなく起こって、制御することができなくなり、まさに暴れ馬のように手が付けられなくなたり、しっかりとくつわずらをつけて制御しておかないと、その暴れ馬に牽かれて落とし穴や谷底へもろとも転落させられたりしてしまうことになるのです。

泥棒などの被害によって引き起こされる苦痛は、どのような大きな被害であってもその人一代で終わりになりますが、五根や五欲に溺れて招いた罪過や禍いは、自分一代にとどまらず、次の世代に及んで、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に輪廻するのです。

人間の欲望は、欲しいままに任せたらその禍は未来永劫に続くのです。
五根という賊による禍は自分だけではなく子孫累代にも及ぶ。その被害は甚大であり、慎む上にさらに慎まなければならない。それほど五根を放逸させておくことは危険なことであり、絶対に慎まなければならないことです。

だから、まことの智慧のある者は五根の欲望をしっかり制御していて、その誘いに自分からついていって五欲に溺れることなどあってはなりません。
それはちょうど害を及ぼす盗人をしっかり取り捉えて勝手気ままな振る舞いをさせないように、人は五根をしっかりと制御して清らかな仏心を保持しなければなりません。

かりに、五官である眼、耳、鼻、舌、身の五欲にふけったところで所詮諸行無常の定めによってわれわれ人間は皆いつかは死んでいくのであるから、一瞬の快楽に身をゆだねて、永遠に続く尊い命を粗末にしてはなりません。
今生の務めとはただただ五根を制御することに精進しなければなりません。
以上が今段の趣旨ですが、あらためて五欲について考えてみましょう。

色欲・・・
性欲は健康であれば誰でも持っている美しい欲望です。
しかし、世の中には畜生にも劣る卑劣な人間がいるものです。
最近では女児を脅かしバックに入れて連れ去ろうとした事件や、剣道日本一の警察官がネットを通して女子に猥褻行為をしたり、柔道金メダリストによる事件などもありました。
ちなみに平成21年に発生したわいせつ事件はなんと2357件で1626人が検挙されたとか。

動物と同じだといったら動物に失礼です。
なぜなら、どんな動物も同類に対して犯罪は起こしません。
"畜生にも劣る行為"とはまさに人間社会の「変態」にほかなりません。
それも高度文明化された社会ほど多いのです。
知能や知識、学歴や地位などが必ずしも理性の歯止めにはなっていないのはなんとも悲しい人間の性です。

食欲・・・
体を維持する大切な欲望です。確かに食べることは快感です。
必要程度の栄養を摂ればいいものをつい食べ過ぎてしまうのがこの性です。
食文化を堪能できるのは人間の特権かも知れません。
しかし、美食の快感が必ずしも健康のためになっていないことを人はもっと知るべきです。
生活習慣病になって初めて食べ過ぎに気づき後悔する人がなんと多いことでしょう。

前々回でも触れました。
人類が永い飢餓の歴史のなかで身につけてきた体質は飢餓対用であって対飽食用ではなかったのです。
それ故豊かな食生活を送る人ほど生活習慣病の危険が高いのです。
飽食大国日本の現状も異常です。
生活習慣病が医療費全体の三割を占めていて、その年間医療費は実に10,4兆円にもなるとか。

2500年も前、すでに釈尊は飽食に対して警鐘されています。
「人は自ら懸念して、量を知って食をとるべし。さすれば苦しみ少なく、老ゆること遅かるべし。」と、まさに金言です。
人は食事の適量を心がけるべきで、それが健康を保ち老化を防ぐと元だと明言されているのです。

食欲という本能は実に抑制が難しいのです。
しかし、人間にはそれに負けない知恵と理性がある筈です。
それが生かし切れないのはただの甘えにすぎません。
喫煙も同じです。分かっていながら止められないのは単なる我が儘です。

そんな人は、やがておとずれる因果応報の後悔を待つだけの人生になってしまいます。
健康は自己責任であり、健康にこそ幸福の基本があることは誰にでも分かっている筈ですから。

睡眠欲・・・
肉体と健康を保持する大切な本能です。
動物にとって食欲と並んで最も基本的な本能と言えるでしょう。
眠気は快感です。特に微睡(まどろみ)の中の快感は格別です。
ただその快感に負けて怠け癖が付かないためには自制力も必要でしょう。

他方、眠るべきときにはしっかり寝て疲れを取ることが睡眠欲を制御することでもあります。
少し前になりますが、大型ツアーバスの運転手が居眠り運転で大事故を起こし大勢の人が亡くなった事故などがありました。
睡魔に負けて不幸にならないために必要なものは基本的生活習慣です。

それにしても、若い時にはいくらでも寝ていられたものです。
それが歳と共にだんだん寝ていられなくなったのも老化による自然現象かも知れません。
このごろ安眠の有りがたさをつくづく感じる歳になりました。
いずれにせよ安心、安眠が幸せの証であることは確かです。

財欲・・・
人間特有の欲望だと言いました。
確かに犬や猫が財産やお金を欲しがることはありません。
本能欲ではありませんが、実に抑制が難しい欲望なのです。
この欲望の対応如何で人は幸福にもなるし不幸にもなります。
まさに人格の程度が決まるといってよいでしょう。

財産やお金に対するこだわりには実に個人差があります。
お金や財産こそ幸福の証だと信じる人ほどその欲望は強いようです。
その執着によって自らを墓穴に陥れて不幸になる人がなんと多いことか。
拙僧も職業柄、遺産をめぐる骨肉の争いを幾つも目にしてきましたが、なんとも哀れなのは亡くなった親やご先祖です。
なんたる親不孝かを恥じるべきです。

名誉欲・・・
この名誉欲も人間特有の欲望です。
お金や財産に余裕ができると地位欲や名誉欲が頭をもたげてくるのです。
この欲こそ個人の人格に関わるところが大きいようです。
偉く思われたい、立派だと言われたい。歴史に名を残したいなどと思う人はいくらでもいます。

アメリカ、中国、韓国そして日本が今政権交代の時期にあり政権闘争が活発になっています。
特に天下国家の政権こそ最高の地位であり名誉です。その一番エライ人を目指す人、その恩恵を目論む取り巻きの有象無象こそ名誉欲に駆られたコバンザメです。

純粋に天下国家のために私心を捨てている政治家が果たしてどの位いるでしょうか。
人の本心を窺い知ることはなかなか難しいことですが、一般国民が最も知りたいところはその点かも知れません。
週刊誌などは当落議員の予想を立てたり、果ては落選させるべき議員の序列まで"発表"してその好奇心を煽っています。

折しも本日、橋下大阪市長による日本維新の会の結党が宣言されました。
彼は今、日本の政界で最も注目されているまさに時代の寵児と言われています。
政治がまったくの信頼を失ってしまった今、橋下氏に対する期待はたいへんなものがあるようです。

維新八策など子供の戯言だと言っている現職の義員も多いようですが、自らの給与、定数、歳費削減も実行できない彼等こそ、名誉欲、財欲の権化にほかなりません。
国民の45,3%が支持政党なしということは、国民の半分から愛想を尽かされてしまっているという恥を知るべきです。

そんなバカは、なにも政治家に留まりません。
坊さんの世界にも僧階というのがあって、それにこだわる人も結構いるのです。
エライかどうかは肩書きや自分が決めるのではなく、他人や社会が判断するということを弁えるべきでしょう。

その人がほんとうにエライ人かどうかを決めるのは、本人ではなく社会だという点において、政治家も坊さんも似たような立場にあります。
人の価値を決めるのは肩書きや地位や財産などではないことを社会の人は見抜いています。
そして、人のほんとうの価値を決めるのは、「私心のない心」だということを。

又、これは勿論政治家や僧侶に限ったことではありません。
人にとって最も美しい心は「私心のない心」です。
これを仏教的にはすなわち「布施のこころ」といいます。

その布施の心に基づけば、「五欲の心」はすべて浄化されて「仏心」にすることができるのです。
人が本物かどうかを決める基準は、只一つ「布施心」に尽きるということです。

合掌

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