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仏教講座

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観音経 --その9--

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無尽意菩薩。白仏言。
世尊。観世音菩薩。云何遊此娑婆世界。云何而為衆生説法。方便之力。其事云河。

仏告無尽意菩薩。善男子。若有国土衆生。応以仏身。得度者。観世音菩薩。 即現仏身。而為説法。応以辟支仏身。得度者。即現辟支仏身。而為説法。応以声聞身。 得度者。即現声聞身。而為説法。
無尽意菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さく。
世尊、観世音菩薩は、云何(いかん)がして此の娑婆世界に遊び、云何がして衆生の為に法を説く。方便の力、其(そ)の事云何。

仏、無尽意菩薩に告げ給わく、善男子、若し国土の衆生ありて、
応(まさ)に仏身を以て得度すべき者には、観世音菩薩、即ち仏身を現じて而(しか)も為に法を説き、
応に辟支仏身(びゃくしぶっしん)を以て得度すべき者には、即ち辟支仏身を現じて而も為に法を説き、
応に声聞身(しょうもんしん)を以って得度すべき者には、即ち声聞身を現じて而も為に法を説く。

本段は無尽意菩薩がお釈迦さまに「世尊よ、観世音菩薩は、いかにしてこの娑婆世界に遊び、いかにして衆生のために法を説くのか、方便の力そのものとは何なのですか」と質問することから始まっています。

ここでのポイントは3つです。
「娑婆世界」と「遊ぶ」とそして「方便の力」の3つです。
まず「観音さまはこの娑婆世界に遊び、どのように衆生のために法を説くのか」とありますが、まず娑婆世界とは何でしょう。

広辞苑によりますと「苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実に住んでいるこの世界。
釈迦牟尼仏が教化する世界。自由を束縛されている軍隊・牢獄または遊郭などに対して、その外の自由な世界・俗世間。」などとなっていますがその通りでしょう。

あと個人的ですが、昔本山で修行中よく言われました「ここはシャバじゃねえんだ・・・」という言葉を思い出します。
本山はシャバではないと言うのなら何処なのでしょう。極楽浄土だったのか牢獄だったのか。
少なくとも居心地が良くなかったのは確かです。

「娑婆」とは梵語のサハーという音写語だということです。その意味は「忍ぶ」ということです。
この人間世界は「忍ぶ世界」「堪忍世界」ということです。
人間世界は基本的に「苦しみ」の世界なのです。だから堪える世界だということです。

たしかに人間世界は外的には地震、洪水、干魃(かんばつ)などの天災をはじめ、人為的には戦争、テロ、公害、犯罪などの被害があります。
内的には人間関係、仕事関係、家族関係、金銭関係などの問題をはじめ、病気や老などのさまざまな苦しみがあります。

それらすべてに堪え忍んで行くのがこの人間界なのです。
確かに文明や科学技術は想像を超えて進歩してきました。
でもその恩恵といえば多少生活が「便利」になった位なもので、基本的には太古の昔から人の苦しみは減ってはいません。

戦争が減りましたか。テロが減りましたか。
犯罪が減りましたか。貧困が減りましたか。
心の悩み苦しみが減りましたか。
高度化、多様化、複雑化された社会から人の苦しみはむしろ一層増えていると言ってよいでしょう。
皮肉にも現代こそ最も娑婆世界と言うにふさわしいのかもしれません。

2500年も昔にお釈迦さまは人類の未来に「仏教」による浄土の世界を期待されていたのかもしれませんが、残念ながら2500年も掛けながら結果人間界は精神的にはちっとも進歩しなかったのです。
「娑婆世界」はこれからもやはり娑婆世界なのでしょうか。

そんな娑婆世界に観音さまは「遊ばれる」というのですが、この「遊ぶ」という意味はなんでしょう。
一般的には「遊ぶ」というと、趣味や娯楽に身と心を任せることを云います。
広辞苑には「心身を解放し、別天地に身をゆだねる」とか「楽しいと思うことをして心を慰める。
宴会・船遊び・遊戯などをする」さらに「酒色やばくちにふける」などとあります。

観音さまは遊び半分、浮かれた気持ちで衆生済度にお出ましになるのでしょうか? イヤイヤそんな筈はありません。
では観音さまが「遊ぶ」という表現を使っているのは何故でしょう。

観音さまの衆生済度は趣味でも娯楽でもそしてまた仕事でもボランティアでもありません。
仕事やボランティアには「義務」や「善意」の意識が付きまといます。それは「こだわり」の意識なのです。
観音さまの行為はすべて無心ですから一切のとらわれやこだわりがないのです。

逆に言えばこだわりやとらわれがあったら観音さまの行為とは言えないのです。
ですから観音さまには衆生済度をしているという意識すらないのです。
この点が大変重要ですので是非理解して欲しいところです。

とらわれやこだわりが無いから自由自在なのです。
自由無碍に飛び舞うことができるのです。これを「遊ぶ」と言うのです。
一切のとらわれの無い大自由の境地、これを遊戯三昧(ゆげざんまい)と言います。

自受用三昧(最上なる仏境界)に遊戯するには端坐参禅を正門とせり。(正法眼蔵弁道話)
(大自由の仏の世界に遊ぶには坐禅こそが正しい入り口である)

続いて無尽意菩薩は、「観音さまの方便のお力はどのようなものですか?」と尋ねられました。
その「方便」とは何でしょう。
方便とは手段です。
例えば、「勉強すればお小遣いをあげるよ」と父親が言います。
この場合、勉強が目的であり、お小遣いが方便なのです。

それと同じで、観音さまの目的は衆生済度であり、そのための方便(手段)が変身なのです。
救うという目的のために変身という方便が使われるのです。
方便の「力」とは変身の「技」ばかりではありません。大事なのはその「効果」です。
その効果を理解することがこの段の最大のテーマと言ってよいでしょう。
ではその方便の効果とは何でしょう。

この観音経の中で今まで「一心に観音さまを称名すれば即座に観音さまがやってきて救ってくれる」「一心称名で観音さまと自分が一体になれるから救われる」という観音さまが中心でした。
しかしここで新たに説かれているのは、観音さまには実は変幻自在に身を変える妙力があるということです。

観音さまは求める人の求める姿に身を変じて法を説かれるというのです。
「善男子よ、もし国土の衆生ありて、まさに仏の身をもって、度(すく)うことを得べき者には、観世音菩薩は、すなわち仏の身を現じて、しかも為に法を説く。」

まず観音さまは仏さまを求める人には仏さまとなってその人を救うというのです。
ある人が、阿弥陀仏を求めていたら阿弥陀仏となり、ある人が薬師仏を求めていたら薬師仏となり、またある人が地蔵菩薩を求めていたら地蔵菩薩となって説法してくださるというのです。

次が辟支仏(びゃくしぶつ)です。
「まさに辟支仏の身をもって、度(すく)うことを得べき者には、すなわち辟支仏の身を現じて、しかも為に法を説く。」

辟支仏とは「独覚」という意味で特に師匠とかを持たず独力で悟りを得た人のことをいいます。
世俗から離れ山中一人で修行に励むような行者を指します。
その悟った内容が十二縁起といわれることから「縁覚身」(えんがくしん)ともいわれます。
十二縁起とは人間存在の構造を十二の項目に分けて人間の苦しみと悩みの因果関係を解き明かしたものです。

辟支仏は自分一人の力で真理を悟った人ですが、人にその教えを説こうとはしません。
そのために多少自惚れのある独善仏でもあるのです。
ただお悟りを開いている以上一応「覚者」ですから「仏」となってはいますが大乗仏教ではあまり評価はされていません。
観音さまはそのような仏さまにも身を変じて来てくださるというのです。

次が「声聞身」(しょうもんしん)です。
「まさに声聞の身をもって、度うことを得べき者には、すなわち声聞の身を現じて、しかも為に法を説く。」
声聞身とは仏の声を聞いて悟った人のことです。
声とは仏の声であり、それを聞くことで「覚者」となったということで文字通り「声聞」と言います。
その悟りの内容が四諦(したい)と言われています。

四諦とは四つの真理ということです。
① 苦諦(くたい)・・・生老病死の四苦をはじめ人生は苦であるということ。
② 集諦(じったい)・・・苦の原因は貪・瞋・痴の三毒を始めとするすべての煩悩であるということ。
③ 滅諦(めったい)・・・煩悩の無くなった涅槃の境地。
④ 道諦(どうたい)・・・煩悩を無くすための方法と手段である八正道(はっしょうどう)の実践。

前の縁覚身(辟支仏)とこの声聞身は、一応覚者といえども自利(自己主義)を主とするので菩薩の位ではありません。
ちなみに菩薩とは他利(すべて他のためを優先する覚者)を主とする者をいいます。
御存じ十界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏となっていますが、縁覚と声聞は六道から上の世界ですが菩薩の世界には至っていませんね。

観音さまは求めに応じて自ら仏身となり、または声聞身となり、あるいは辟支仏となり四諦とか十二縁起を説かれるのです。
以上が一応この段の語訳(説明)ですが、これを理訳で考えてみましょう。
私がこれまでくどくどと述べてきました「一心称名観世音菩薩」の理論を思い出してください。

一心に観音さまのお名前を称えることによりまず自分自身が無我無心になります。
それは同時に無相無碍の観音さまと同時限の世界に入るということになります。
つまり同化するのです。同化するということはつまり自分自身が観音さまになるということです。
自分自身が観音さまになることで完全に救われるという理屈です。

これと全く同じ理屈です。
声聞身であれ、辟支仏であれ、希望するどんな仏さまでも、その仏さまを一心に称名することで自己が無心になり、同時にその仏さまと一体の世界に入るということです。

「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」(ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸仏の実相を究尽す) 『法華経方便品』 「仏と仏同士だけが真実の仏の実体を表す」という意味です。

仏身や辟支仏身や声聞身に変身する観音さまも、それを求めている衆生もまた実体はまったく同じ「ほとけ」であるということです。
みな同根の仏同士だから求めれば必ず救われるというのです。
(またこれは求めなければ救われないということですよ。念のため)

合掌

曹洞宗正木山西光寺