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仏教講座

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観音経 --その10--

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応以梵王身。得度者。即現梵王身。而為説法。
応以帝釈身。得度者。即現帝釈身。而為説法。
応為自在天身。得度者。即現自在天身。而為説法。
応以大自在身。得度者。即現大自在天身。而為説法。
応以天大将軍身。得度者。即現天大将軍身。而為説法。
応以毘沙門身。得度者。即現毘沙門身。而為説法。
応(まさ)に梵王身(ぼんのうしん)を以て得度(とくど)すべき者には、即ち梵王身を現(げん)じて而(しか)も為に法を説き、
応に帝釈身(たいしゃくしん)を以て得度すべき者には、即ち帝釈身を現じて而も為に法を説き、
応に自在天身(じざいてんしん)を以て得度すべき者には、即ち自在天身を現じて而も為に法を説き、
応に大自在天身を以て得度すべき者には、即ち大自在天身を現じて而も為に法を説き、
応に天大将軍身を以て得度すべき者には、即ち天大将軍身を現じて而も為に法を説き、
応に毘沙門身(びしゃもんしん)を以て得度すべき者には、即ち毘沙門身を現じて而も為に法を説く。

お釈迦さまが列挙されている観音さまの変化の姿は、三十三身あります。
そのうちの初めの三聖身についてはすでに前回に述べました。
ここから残りの三十身が一々説明されていきますが、はじめにここでまとめておきましょう。

三聖身・・・仏身、辟支仏身、声聞身
六種天身・・・梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、毘沙門身
五種人身・・・小王身、長者身、居士身、宰官身、婆羅門身
四衆身・・・比丘身、比丘尼身、優婆塞身、優婆夷身
四種婦女・・・長者婦女身、居士婦女身、宰官婦女身、婆羅門婦女身
童男童女二身・・・童男身、童女身
人非人八部身・・・天身、竜身、夜叉身、乾闥婆身、阿修羅身、迦楼羅身、緊那羅身、摩候羅迦身、執金剛一身

以上三十三身のこれらは観音さまが身を現じて衆生を救ってくださるという変身を代表したものです。
つまり、観音さまはありとあらゆるものに身を現じて救ってくださるという例をこの三十三身にまとめたものだと捉えたらよいでしょう。

そこで問題となるのはこれらの中には、仏身、帝釈身のような貴い方もありますが、夜叉身、阿修羅身のような悪神もいるのです。
仏身や梵王身、帝釈身に身を現じて衆生済度されるというのは分かりますが、そこに悪神である夜叉身や阿修羅身などが含まれているのです。

これは一体どういうことでしょうか。これが本段の最大のポイントです。
この観音経の中でも特に難解なポイントですが、これが理解されなければ観音経を真に理解したとは言えません。
この点を踏まえてしっかりと観ていきたいと思います。

本段では「六種の天身」が登場しています。
六種の天身とは梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、そして毘沙門身の六身です。
梵王とは「梵天」とも呼ばれ、もとはインドの神話に出てくる神さまで仏教にとりいれられて帝釈天と並ぶ仏教の護法神とされています。特に娑婆世界を監督する神です。

梵王とは欲界を離れた聖者と考えたらよいでしょう。
欲界とは貪り、瞋(いか)り、痴(おろかさ)の 三毒に侵されている世界です。
この欲望の世界から離れ清浄な世界に住んでいるとされる"聖者"が梵王なのです。

「応に梵王身を以て得度すべき者には、即ち梵王身を現じて而も為に法を説き、」とあります。
「得度」とは「救う」ということです。
その意味するところは、観音さまは求めに応じて清浄なる梵王身となって衆生を救うというのです。

我を忘れて欲望の追求に夢中になっている人が梵王身を念ずることで、そこに観音さまが梵王身となって現れるというのです。
欲望に没頭邁進するところに浄らかな心が宿ることになるのです。

物欲、金欲、名誉欲、性欲・・・欲望は尽きませんが、梵王身を一心に念ずればそれらの欲望は鎮(しず)まってくるのです。
すなわち"欲望の人"が清浄なる"梵王身"になることができるのです。
観音さまが清浄身となって求める衆生を救われるということです。

次に「応に帝釈身を以て得度すべき者には、即ち帝釈身を現じて而も為に法を説き、」とあります。
「帝釈」とは、インドの神話におけるインドラ神のことといわれます。
仏教に採り入れられて梵天と共に仏教を守護する神とされました。

仏教の十善を護りその教えを広める神と思えばよろしいでしょう。
観音さまはその帝釈天にも変身されて来てくださるというのです。
「柴又の帝釈天」は有名です。

問題は次の自在天身と大自在天身です。これらは共に欲界の神だからです。
初めの自在天とはバラモン教における世界創造神であったのが、仏教にとりいれられてからは欲界の頂に住し、悪を喜ぶ魔王となったのです。
この魔王は人が善いことをしようとするとき邪魔する魔神です。
観音さまは悪魔の化身である自在天にもなって衆生済度されるというのです。

次の「大自在天」は元々シバ神であったといわれます。
仏教に採り入れられてからやはり欲界の魔王となりました。
人は人である以上絶対に悪いことをしないという保証はないのです。
人である限り魔がさすことから逃れられないのです。
悪行のすべては「魔が入る」ことから始まります。
その魔の正体こそこの悪神なのです。

自在とは「おもいのまま」という意味です。
それに「大」が付いています。
悪神の心がまさに変幻自在に衆生の心を操り、思いのまま人の心をコントロールするのです。
人の悪行は全てこの悪魔の仕業だと考えたらよいでしょう。

次は「天大将軍身」です。
天大将軍とは転輪聖王(てんりんじょうおう)のことで、インド神話における帝王の理想の姿であるとされます。
正義の名の元に不退転の意思を持ち、勇猛精進する人のことをいいます。
地上の正義の象徴といったらよいでしょう。

本段のさいごが「毘沙門身」です。
毘沙門身とは多門天ともいい、四天王の一つです。
仏教の宇宙観によりますと、世界の中心には須弥山という巨大な山があり、その頂上には帝釈天が住み、その中腹には東西南北の四方を守護する外将軍である四つの天王いるとされます。
これがいわゆる四天王です。

東方・・・持国天
南方・・・増長天
西方・・・広目天
北方・・・多聞天

北方を守護する多聞天が毘沙門天の別名です。
毘沙門天はまた財宝と福徳のほか子宝をも授けるとされ日本では七福神の一つにもなっています。

以上が本段における大体の説明ですが、本題はここからです。
初めにも触れましたが、ポイントは観音さまは悪魔の化身ともなって衆生済度されるということです。
観音さまが悪魔の姿になって説法するということは容易に理解できません。

観音さまは魔王である自在天や大自在天にも、福徳の神である毘沙門天にも、時と処を選ばずに、一切衆生の要請を請けて応現されるというのです。
これは一体どういうことでしょうか。

善神のみならず悪神にさえ変身して衆生済度するというその真意とは一体何でしょうか。
この点についてはっきり述べている解説書はなかなか見当たらない気がします。
それだけに私の持論は必見ですよ。
観音さまの出現されない世界はありません。
どんな世界でもどんな人でも説法するのです。

そして善人だけを救おうとされません。善人を優先するということもありません。
悪人こそ救おうとされるのです。イヤイヤ、善人も悪人も全く区別されないのです。
観音さまには一切の差別意識がありません。
これを大慈悲心というのです。

観音さまが善神にも悪神にも現じられるということは悪神も善神と同じに扱っているのです。
つまり、観音さまが悪魔の化身になられるということは観音さまが悪魔自身になるということです。
そうなるとどのような現象が起こりますか? どうですか、勘の良い人はもうお分かりですね。
そうです。悪魔の方が観音さまになってしまうのです。

どんな悪神鬼神であれ観音さまに同化されてしまうのです。
そこはもう観音さまの世界です。
観音さましかいらっしゃいません。さらに申せば観音さまは元々悪の世界を認めていないのです。
認めていないというより観音さまには「悪」というものは"元から無い"といったらよいでしょうか。

ここで誤解をしないでください。
悪が無い世界とは観音さまを信じてこそ出現するのです。
どんな処にも観音さまは出現されると言っても"信心"がなければ絶対に観音さまは来てくれません。

但し、"信じる人"も決して油断しないでください。
悪神とは実はどんな人の心にも住んでいるのです。
だからこそ観音さまを一心に念じることで「魔がさす」ことから悪神を封じるのです。

どうですか。
一見難解とも思われる悪神変幻自在のからくりも実はいたって単純明解だったのです。
観音さまは何処にでも赴かれるのです。常に極楽や平穏な世界におられるのではありません。
イヤむしろ修羅界や餓鬼界や地獄界にこそ進んで遊戯されるのが観音さまなのです。
そんなところからやはり観音さまはいつでも人気ナンバーワンなのでしょうね。
以上

合掌

曹洞宗正木山西光寺