千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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仏教に関するQ&A

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熊本県 40歳代の女性からのご質問

ご住職様はじめまして。
「隻手音声」の法話で『実体の無いものは「妄想」なのです』とありました。
「実体」についてお尋ねさせてください。ちょっと逆さに考えてみました、どんなものが「実体のあるもの」だろうと。答えが出てきません。
「実体」という言葉自体が、無いものに名前をつけた至極怪しいものに思われてきました。
ご住職様が使われた意味では、「実体」とはどういう性質のものなのですか?

答え

質問ありがとうございます。
『実体の無いものは「妄想」なのです』についておこたえします。

あなたのご質問も無理はないと思われます。
確かに「実体の無いもの」なんてこの世に存在するはずはありませんからね。
多分「実体」の解釈の相違による誤解だと思います。あなたが間違っているのではありません。
私の説明下手だと思います。「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」との混同だと思います。

まず「言葉の意味の実体」からお話します。
例えば「実体の無い会社」というものをよく聞きますが、それは名前だけの幽霊会社です。
つまり名ばかりで「実体がない」のです。「実体のないのは幽霊会社」というその意味とまったく同じです。
「幽霊会社」を「妄想」に置き換えてみてください。
つまり「名前としての実体」が無いということです。多分これでご理解いただけるかと思います。

更に言えば、子供がよく地球に赤道があるということで実際にそこに赤い線があると思い込んでいたということをきくことがありますが、それは実際には無いものを有るものと信じていたということですから「妄想」です。
「赤い線」という名前ばかりの「実体(実存)のないもの」を信じていたということになります。
「赤い線という実体(実存)」のないものを信じることは妄想だという表現になっているのです。

赤道は架空のものですね。それと同じように人間社会は都合上様々な架空のものをつくりあげてきました。
例えば暦がそうです。大安、仏滅、友引といった「印」や「証拠」など実際にはどこにもありません。
今日はお元旦だという声がどこからか聞こえてくることもありません。
現在何時何分だという証拠もどこにもありません。
つまり時間も曜日もその「意味としての実体」が無いということです。

大安も仏滅もお正月も節分もその意味としての実体は無く、「本質としての実体」はまったく「同じ」なのです。
どうかそのように意味合いを区別されて御理解いただきたいと思います。

さいごになりますが、禅の目的はただ一つ宇宙の智慧である「真実の姿」つまり「宇宙の実体」を知ることにあることは間違いありません。

合掌

熊本県 40歳代の女性からの返信 (※一部修正させていただきました)

早速お返事くださり、ありがとうございます。
赤道の例は大変分かりやすかったです。
自分にまだ混乱があるように思われますので、もう少しお尋ねさせてください。

「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」との混同ということですが、「本質の意味の実体」は、凡夫には普通捉えられないものと解してよろしいでしょうか。
「言葉の意味の実体」とは、五感で外的に捉えられる対象物(見えるもの、さわれるもの、味わえるものなど)があってそれに名称が付けられたもの、ということになりましょうか。

 赤道とか希望とかは、ただの概念で五感では捉えられないという意味で、言葉の意味でさえ「実体が無い」、そういうことですか?。
「万物は刻々変化しているので実体はない」という言説がありますが、これも言葉の意味のレベルで実体が無いと言っていることになるでしょうか?

よく、「自我という実体は無い」という言説を聞きますが、この場合の「実体」という意味がこれまで私にはよく分かりませんでした。
「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」とを混同していたのかもしれません。
自我の場合、やっかいなことに五感で捉えられるような感じがするので、言葉の意味のレベルでは実体があるように感じます。
手足は触ることができるし、褒められたり侮辱されたりすればはっきり体に感覚が生じます。

「自我という実体は無い」という言説の場合、「本質の意味の実体は無い」ということを言っているのですか?
「本質の意味の実体」が凡夫には捉えられないものであるように、「本質の意味の実体が無い」こともまた凡夫には捉えられない、と理解していいでしょうか?
よろしくお願いします。

住職からの返信

あなたの混同されるのもよくわかります。
どこまで説明できるかわかりませんが私の考えを述べさせていただきます。

「言葉の意味の実体」とは、おっしゃるとおり、五感で捉えられる対象物に対する「概念」です。
「万物は刻々変化している」というのを「諸行無常」という意味に解釈しますと、その場合の「万物」は「形あるもの」であり「言葉の概念」ということになります。

この場合の実体は「変化」を指しているので「言葉の意味」の「実体」になるかと思います。

「自我という実体は無い」という「実体」の意味も「言葉の意味」を指しているかと思います。
「赤道という実体は無い」と同じです。
「自我意識」というのはただの「概念」だという意味です。
ちなみに「自我」の「本質の意味の実体」は「空」です。
万物の実体(本質)も自我の実体(本質)も宇宙の実体(本質)も同じであると説いているのが般若心経です。

「色」は人の思ったり感じたりする五感、すなわち「概念」を指します。
「空」はその「本質」、つまり「実体」を指します。
宇宙の実体(本質)をズバリ言い切っているのが正に般若心経だと言えるでしょう。 概念も本質もその「実体」は正に一体であるというのが「色即是空」という言葉です。
この場合の「実体」は勿論「本質論」の意味です。

生きているという「概念」は無く、死という概念も無いというのが「不生不滅」ということです。
汚いとかきれいとかはただの「概念」であり、実体(本質)は同じだというのが「不垢不浄」ということです。
増える感覚も減る感覚も「概念」であり、眼でみるもの、耳で聞くもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、身で感じるもの、意(意識)するものはみな「概念」であり、本質は「空」というのが「実体」であるというのが、「不増不減」「無眼耳鼻舌身意」の意味です。

確かに『「本質の意味の実体」が凡夫には捉えられないもの』であるからこそ修行するのです。
修行とは正に「宇宙の実体(本質)を悟ること」にあるのです。
その宇宙の実体を理解することこそ「般若の智慧」を会得することになるのです。
これからのご精進をご祈念いたします。

合掌

熊本県 40歳代の女性からの返信

ご住職様 面倒な問いにお答えくださり、ありがとうございました。
知的・論理的レベルでどうもすっきりいかなかったのが、すっきりしました。
概念と実体について、『汚いとかきれいとかはただの「概念」である』というのは、論理として問題なく捉えられていました(実際は、トイレ掃除は嫌いですが。・・・好き嫌いも概念ですね)。

『眼でみるもの、耳で聞くもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、身で感じるもの、意(意識)するものはみな「概念」である』という無眼耳鼻舌身意のご説明が、私にとって大変新鮮で、これで『生きているという「概念」は無く、死という概念も無い、増える感覚も減る感覚も「概念」である』も全部論理的にすっきり行きました。

知的・論理的レベルでの理解に過ぎませんが、少なくともそのレベルではやっともやもやが取れました。
「真理は論理的だが、論理は真理ではない」という言葉を聞いたことがあります。
この言葉も私には本当かどうか知る術は無いのですが、「本当らしい」という根強い感はあったので、論理的にすっきりすることは自分には大変ありがたいです。

実に「やっと」、やっとやっともやもやが取れました。ありがとうございました!

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