観音経 --その3--
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若有百千万億衆生。為求金銀瑠璃瑪瑙。珊瑚琥珀真珠等宝。入於大海。
仮使黒風。吹其船舫。飄堕羅刹鬼国。其中若有乃至一人称観世音菩薩名者。
是諸人等。皆得解脱羅刹之難。以是因縁。名観世音。
若し百千万億の衆生ありて、金銀(こんごん)、瑠璃(るり)、(しゃこ)、瑪瑙(めのう)、珊瑚(さんご)、琥珀(こはく)、真珠等の宝を求めんが為に大海に入らんに、仮(たとい)使黒風其(そ)の船舫(せんぼう)を吹いて、羅刹鬼国(らせつきこく)に漂(ただよ)い堕(おち)んにも、其の中若し乃至一人(ないしいちにん)も、観世音菩薩のみ名を称える者あらば、是の諸人等(しょにんとう)、皆羅刹(みならせつ)の難を解脱することを得ん。
是の因縁を以て観世音と名づく。
ありとあらゆる衆生、つまりすべての人間にとって金銀など七種の財宝を求めて大海に船出して行ったとします。途中で黒風という嵐に襲われました。
船は羅刹鬼国(らせつきこく)というところに漂着しました。
その国とは喰人鬼の住む国であったのです。
そのとき、その中の一人でも観音様の御名をお称えする者がいればその他の人たちも共に食人鬼からの難を逃れることができるのです。
この因縁によって観世音と名付けられたのです。
以上が事訳ですが、これを意訳で考えてみましょう。
ここでは(3)風難について説かれています。風難とは何でしょう。
風難とは吹きまくる欲望のことです。その欲望の対象が七つの財宝なのです。
どんな人でも財宝には特別な思いを持っています。
七つの財宝に対する思いは有って当然なのです。
適量の財宝は人を心身ともに豊かにしてくれます。
ここでは財宝を否定しているわけではありません。
問題は過剰の欲望です。
先の分からない大海に乗り出してまで求めようとするその欲望が問題なのです。
大海に乗り出す程の欲望は妄我妄執としか言えません。
金銀、瑠璃、等々の七宝を求めて大海に船出して一体何が有るというのか。
そこに有るのは大嵐だけなのです。
その大嵐の正体こそ欲望なのです。
その貧欲が大嵐となって我が身自身のみならず一緒にいる仲間たちおも襲って来るのです。
しかもその欲望という大風は悪い方向にしか吹きません。
その悪い方向に在るのが当然人喰い鬼の住む国なのです。
結果その人喰い鬼の餌食になって一巻の終わりということです。
しかしここでよく考えてみてください。
財宝を求めて船出したのも自分の欲から。大風に吹かれたのも自分の欲から。
その結果破滅の島に漂着し、まさに鬼に喰われようとしているのも自分の欲からです。
そこから分かるのは人喰い鬼の国もその鬼も全て自分が作り出したものなのです。
その実どこにも喰人鬼なんか居ないのです。居るのは自分自身の中にこそなのです。
「全ての敵は己自身に在り」ということです。早く貪欲に陥った自分に気付くべきなのです。
それに気付かせてくれて悟りを与えてくれるのが一心称名の「念彼観音力」のなのです。
まさにその時観音様の御名を称えることによってその欲望の嵐は即時に悟りに変わるというのがその理釈なのです。
その欲が悟りに転換するとき、その七つの欲財が七つの清浄財に変わるというのです。
清浄財とは悟るための精神財なのです。
正に煩悩即菩提とはこのことですね。
それが、
1,信財(証、さとり)
2,進財(精進)
3,聞財(聞くこと)
4,慙財(恥を知ること)
5,戒財(戒めをもつこと)
6,捨財(施すこと)
7,定慧(禅定と智慧)
の七つなのです。
羅刹鬼国とは喰人鬼の住む国であると言いましたが、実はそれこそ我々の住むこの世界のことであったのです。
ありとあらゆる欲望のうずまいているのが現実のこの世界なのです。
鬼が人を喰うのではなく、人が人を喰っているのがこの娑婆世界なのです。
人の形をした鬼がそこかしこにうじゃうじゃいます。気をつけましょう。
羅刹鬼国に住む人喰い鬼やその餌食にならないために自覚が必要なのです。
それには観音菩薩の威神力を信じ「南無観世音菩薩」と心から念じることです。
繰り返しになりますが、一心称名とは無我に成り切って至誠に「観音様」をお称えすることなのです。
悟りを願う心こそ人間の持つ本来の最大の欲望なのです。
そして「一人ありて」という、たった一人であっても真実の叫びには観音様は応えてくださるという広大無辺の大慈悲心を感じざるを得ません。
たとえ自分ひとりであっても勇気を持って臨めば他の人たちも共に救われると説いています。大乗仏教の教えですね。
合掌