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仏教講座

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観音経 --その17--

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我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 竜魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
我、汝の為に略して説かん。
名を聞き及び身を見、心に念じて空しく過さざれば、能く諸有の苦を滅せん。
仮使(たと)ひ害意(がいい)を興(おこ)して、大火坑(だいかきょう)に推(お)し落されんにも、彼(か)の観音の力を念ずれば、火坑も変じて池となる。
或いは巨海に漂流して、竜魚諸鬼の難あらんに、彼の観音の力を念ずれば、波浪も没すること能(あた)はず。

観音さま「我、汝の為に略して説かん」の「我」とはお釈迦さまであり、「汝」とは無尽意菩薩のことです。
お釈迦さまは我々衆生を代表しての無尽意菩薩にこれまで縷々説明してきた観音菩薩についてこれから更にもう一度簡潔に説法くださるというのです。

「名を聞き、及び身を見、心に念じて空しく過さざれば、能く諸有の苦を滅せん」
観音菩薩の御名を聞いて、そのお姿を拝して、そして真剣に観音さまを心から念ずれば、必ずやあらゆる苦しみから逃れることができると説いています。
諸有とはすべての存在のことであり一切衆生のことです。その「苦」とは一切衆生が生きていく中でのすべての苦しみのことです。

念ずるとは一心に成り切って観音さまをわがこころの中に思い浮かべることです。
そして、そのお姿に合掌し同時に心から「南無観世音菩薩」と至誠にお唱えします。
するとたちどころにあらゆる苦難は雲散霧消し、我心は浄化されるというのです。

本段ではそのあらゆる苦難の中から、まず火難と水難が説かれています。
まず火難についてです。
「仮使ひ害意を興して、大火坑に推し落されんにも、彼の観音の力を念ずれば、火坑も変じて池となる」
もし人を殺害しようと思って、その人を火の燃えさかる穴の中に突き落とした時でも、その人が観音の力を念ずれば、その火の穴が変じて池となると説いています。

火坑とは火の燃えたぎる深い穴のことです。ちょうど火山の噴火口のようなものでしょうか。
真っ赤な溶岩が煮えたぎっているそんな穴の中に落とされたら人間など一瞬のうちにどろどろに溶けてしまうでしょう。
そんな火の穴に落とされたとしても、「南無観世音菩薩」と心から念ずればその火の穴はたちどころに池に変わってしまい救われるというのです。

続いて水難についてです。
「或(あるい)は巨海(こかい)に漂流して、竜魚諸鬼の難あらんに、彼の観音の力を念ずれば、波浪も没すること能はず」
底知れぬ大海に漂流した時、竜魚や鬼におそわれ、海の底にひきこまれようとしても、観音の力を念ずるならば溺れ死ぬことはないと説かれています。

竜魚というのは、竜神のことで大蛇の形をした鬼神のことです。
諸鬼とは餓鬼や夜叉、羅刹など凶暴な心を持った地獄の赤鬼や青鬼のことです。
火難や水難に遭ってまさに命を落とすかも知れないその時に、心から観音さまにおすがりすれば観音さまが必ず救ってくださるというのがこの段の主旨です。

言葉の意味からの解釈ですとまさに奇蹟のできごととしか思えません。
普通の感覚からすると、いくら宗教とはいえ、観音さまを拝むことで奇蹟が起きるなんて俄には信じられないことでしょう。
観音経の教えとはそのような単純な非合理なものだったのでしょうか。

実際、観音経を学ぶ人の多くがこのような疑問にぶつかるのです。
多分あなた自身もそうかも知れませんし、私自身も当初そうでしたからそれはよくわかるところです。

そして、仏教はこんなものかと見下してしまう人と、さらにこの疑問に立ち向かって行く人とに分かれるのです。あなたはどちらでしょうか。
後者の方だとすると最後までこの講座をみてくれる筈です。
いやいやつい思わせ振りを言ってしまいました。悪い癖です。

ということで今回は特にこの疑問をとりあげてみました。
ここでこの観音経の主旨をもう一度確認したいと思います。
それはどんな困難に遭っても観音さまを心から念ずればたちどころに観音さまが現れて救ってくださるということ。
そのためには観音さまを信じてただ祈りなさいという。そうすればたちどころに救われるという。
その例として次々と奇蹟の譬えが説かれています。

理屈は簡単です。しかし問題は果たしてほんとうに観音さまがいてほんとうに奇蹟を起こして救ってくださるのかということです。
この疑問が重大です。
それはこの疑問が解けないかぎりこの観音経を心から信じることはできないからです。

このお経の持つ意味はまさにこの疑問にあると言ってもよいでしょう。
ですからおおいに疑問に思うことが大事です。疑問の先にはかならず答えがあるからです。
その答えのためにお釈迦さまはわざわざ"疑問"を用意されたと考えべきです。
その意図とはこの疑問に向かい修行してやがて疑問が解けることが「悟り」になるからです。
ということでこれからその「疑問の真実」に迫ってみましょう。(おおげさですかね)

もう、結論はおわかりでしょう。この"疑問"の狙いはズバリ「悟り」なのです。
一見単純な現世利益を説いているお経のように思えますが、実はこのお経の目指すところはまさに「悟り」にあるのです。
その悟りに至る手段として設定されたのがこの"疑問"なのです。
「疑問」にはかならず「解答」があるわけですから、その答である「悟り」を意図して「疑問」が設定されたと考えるのです。

この手法を「方便」といいます。
ですから種を明かせば観音さまも奇蹟も「方便」なのです。
つまり観音経とは観音さまと奇蹟という方便を通して人々を悟りへ導こうとされる釈迦さまの意図から成り立っているのです。

「な~んだ。方便だったら観音さまも奇蹟もやはりウソだったのか。」などと早とちりしないでください。
それこそ大変な誤解です。
方便はウソではありません。ウソだと捉える人は方便のほんとうの意味が分かっていない人です。
方便とはつまり、「ほんとうのことを比喩で表現すること」なのです。
ですから方便とは本質的には"ほんとうのこと"なのです。
この認識こそ最も重要なことですから覚えてください。

だとすると、観音さまも奇蹟も「ほんとうのこと」だということが証明されなければなりません。
つまり、観音さまが実在されているということが証明されてこそ、奇蹟も証明されることになるからです。

さーて随分難しくなりましたがこれからが勝負です。
そこでお釈迦さまが考案されたのが「観音劇場」です。
観音さまを主演とし、無尽意菩薩と一切衆生を観客として「観音劇場」を開演されたのです。
演出はお釈迦さまですから、「みなさん観音さまを心から信仰することで必ず救われますよ。
それにはただただ「念彼観音力」ですよ。」と説かれたのです。

ではなぜ「念彼観音力」なのでしょうか。
一心に無碍に観音さまを念ずることで絶対無我の世界に入ります。
そこは一切の対立のない、主観も客観も無い一切皆空の世界です。
そこが涅槃の世界だと認識できればそれが「悟り」なのです。
「念彼観音力」はそのための手段なのです。

悟るということは涅槃に入ることです。
涅槃とは一心の世界であり、一心の世界とは観音さまと呼べばすべてが観音さまになり、地蔵さまと呼べばすべてが地蔵さまになり、阿弥陀さまと呼べばすべてが阿弥陀さまになる世界です。

ですから「念彼観音力」で自分が観音さまになるのです。
自分が観音さまになるのだから奇蹟は自分が起こすのです。
自分が奇蹟になるわけですから、「奇蹟によって救われる」ことになります。

この理屈は決してこじつけなんかではありません。まさにお釈迦さまの意図なのです。
この意図が会得できれば観音経は自分のものです。
いつでもどこでも観音さまと一緒になれるのです。
「南無観世音菩薩」と念ずることでその場が、常・楽・我・浄の涅槃極楽の世界になるのです。

どうですか? 観音さまも奇蹟もほんとうのことだということが理解されましたか。
つまり、迷っている内は観音さまは単なる架空の仏さまなのです。
悟ってこそ観音さまが実在に変わるのです。
つまり、悟ってこそ観音さまのアイデンティティが成立するのです。

ですから、一心に無碍になって観音さまを念じてください。
しかし簡単にすぐというわけにはいきません。
悟りですからそれ相当の修行が必要なのです。
このことも大事なことです。しかしやがて機が熟せば必ずそこに観音さまが現れ自分と一体になります。
そしてあなたは歓喜の声を発するでしょう。
「オオー、自分こそ観音さまだった!」と。それが「悟り」です。

観音経は決して現世利益のお経ではないのです。まさに悟りを得るためのお経なのです。
"現世利益"の域を出ないのは"論語読みの論語知らず"と言わざるをえません。
どうも学者センセイ方の説にはそれが多いような気がします。
繰り返しになりますが、観音経の真意は方便を通して人々を悟りの世界へ導くことにあることを知るべきです。
更にわたしは「観音さま」も「奇蹟」もお釈迦さまが考案された「公案」だと考えるのです。

それは方便とは公案だと考えるからです。ですから観音経それ自体一大公案だと捉えるのです。
これは持論ですが、通弊のセンセイ方からは愚論と言われるかもしれませんね。
しかしこの愚論に、愚僧いささかの自信を持っています。

さいごになってしまいましたが火難と水難の意味について述べておきましょう。
火難とは怒りのことです。「瞋(いか)り」とも書きます。
火は制御できなくなるとすべて焼き尽くすまで燃え続けます。
それと同じように、人の怒りも制御が利かなくなると心は理性を失いとんでもないことをしでかします。
毎日のように起こる忌まわしい事件はすべて身勝手な怒りが引き起こすのです。

怒りの感情は程度の差こそあれどんな人でも持っているものです。
ですから観音さまはそんな怒りが起こらないように、起こってもひどくならないように「念彼観音力」の「心」を説いているのです。

ところで"怒り"には善趣のものもあるのです。"善趣の怒り"とは、つまり正義の怒りのことです。
世の中には正義の怒りもなくてはなりません。仏さまも常にやさしいだけでは片手落ちです。
厳しく怒る仏さまも必要です。その象徴が不動明王です。
不動さまは仏道の障害となる煩悩や悪鬼を追い払おうとして常にあのような憤怒のお顔で衆生を済度されているのです。

今の日本では家庭にも学校にも社会にも正義の怒りがなくなってしまいました。
その逆に理不尽な怒りによる、虐待、いじめ、ストーカー、暴力が蔓延しています。
政治もしかりです。
年金問題から、道路特定財源問題、特別法人問題そして高齢者医療制度、さらに格差問題など、どれもこれもみんな理不尽なものばかりですがその怒りの遣り場が見当たりません。
その怒りが鬱積してやがて暴動になんてことにならないような政治をしてください。政府殿。

今大変なチベット問題も中国政府の理不尽な統治に対する人民の怒りから始まったものです。
その勢いは文字通り怒濤となり、今オリンピック聖火と共に世界中を駆け回っています。
これは皮肉ではなくオリンピアの神の「怒り」だと捉えるべきでしょう。

それと、間もなく胡錦涛主席が日本にやってきます。日本政府もさぞ頭が痛いでしょう。
頭の上の蠅も追われぬ日本政府のことです。胡錦涛さんに諌言する自信も余裕もないかもしれませんが、チベット問題で遠慮していたら足下をみられますよ。

隣の家の幼児が虐待されているのを見ても、それはよそ様の家の内情ですからと言って何の手だてもしないとしたら、それは人倫にもとることです。
支持率低迷に喘ぐ福田さんです。
勇気ある"一転語"を発して世界を見返えすくらいの気概を見せたらどうでしょう。

そしてさいごが水難です。水難とは貪欲で理性を失い悪事をはたらくことを言います。
底知れぬ大海に漂流した時、竜魚や鬼におそわれ、海の底にひきこまれようとしても、観音の力を念ずるならば溺れ死ぬことはないと説かれています。

大海に漂う諸鬼とはわれわれの心に住み着いている疑心暗鬼の心のことです。
その邪念から恨みつらみ、嫉(そねみ)妬(ねたみ)が生まれ人は貪欲になるのです。
大海とは欲望の海のことです。人の欲望は貪欲になると海のごとく深く限りなく広がるのです。
疑心暗鬼という鬼は常に隙あらば人をその貪欲の海中に引きずり込もうと狙っているのです。

貪欲の海に引き込まれと人は罪を犯すのです。事実犯罪のほとんどが怒りか貪欲によるものです。
欲望も怒りも制御できなくなるととんでもない悪事を引き起こすことにもなるのです。
ですから観音経は人がそんな火難(怒り)や水難(貪欲)に陥らないためにと、「念彼観音力」の「心」を説いているのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺