遺教経 --その10--
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仏遺教経 - 十 -
汝等比丘、若し人有りて来りて、節々に支解するとも、当に自ら心を摂めて、瞋恨せしむることなかるべし。
亦た当に口を護りて苦言を出すこと勿るべし。
若し恚心を縦にすれば、則ち自ら道を妨げ、功徳の利を失す。
忍の徳たること、持戒苦行も及ぶ能わざる所なり。
能く忍を行ずる者は、乃ち名けて有力の大人と為す可し。
若し其れ悪罵の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くすること能わざる者は、入道智慧の人と名けず。
所以は何んとなれば、瞋恚の害は則ち諸の善法を破り、好名聞を壊す。
今世後世、人の見んことを憙わず。
当に知るべし、瞋心は猛火よりも甚だし。
常に当に防護して入ることを得せしむること勿るべし。
功徳を劫むるの賊は瞋恚に過ぎたるは無し。
白衣は受欲非行道の人なり。
法として自ら制する無きは、瞋も猶お恕すべし。
出家行道、無欲の人にして、而も瞋恚を懐くは甚だ不可なり。
譬えば、清冷の雲の中に霹靂火を起すは所応に非ざるが如し。
仏教では、煩悩のなかで貧、瞋、痴(とんじんち)を三悪道といって、もっとも恐ろしいものだと捉えています。
貧とは、有っても有っても限りなく欲しいという物欲、金欲などの欲望のことです。
瞋とは、怒りの心、腹を立てることです。
痴とは、正しいことが理解できない心のことです。
釈尊は、特にここでは「瞋」(怒り)について厳しく戒めています。
仮に、強盗がやって来て、刀で手を切り、足を切り、身体をバラバラにされるようなことがあっても、仏弟子は自分の仏心をしっかり持って、決して腹をたてたり怨みや憎しみを起こして、悪口を言ったりしてはならない。
どんな悪口にも堪えられる人こそ修行のできた菩薩であり、悪口のお蔭で自分の罪や欲が正されるので、悪口を頂くことはまさに智慧の蜜をいただくことだと思える人こそ真の悟りの智慧を得た人である。
一度でも腹を立て癇癪を起してしまうと、これまで築き上げてきたどんな功績も徳も吹っ飛んでしまう。
癇癪の怒りは燃え上がった火の如く、いやそれ以上に恐ろしいもので来世にまでも引きずって行くことになる。
このことは在家の人にとっても同じことであり、特に出家した仏弟子にとって無欲のことは勿論であるが、特に腹を立てることは澄み切った青空にいきなり稲妻が走り雷鳴が轟くようなもので実に不似合なものである。
以上が意訳ですが、この節での趣旨のすべては堪忍の重要性について述べられているのです。
しかし、例えば「四肢五体を切り裂かれても腹を立てたり、恨み憎んだりしてはならない」ところなどは、普通ではとても受け入れられない「堪忍論」だと言えるでしょう。
確かに癇癪を起こし怒ったら色々なものをぶち壊してしまいます。理屈ではよくわかります。
しかし、修行を積んだ傑物であってもなかなかそこまでの境地には至れません。
自分が殺害されるような場に直面したら人は誰でも正当防衛として防御や抵抗をするのが当たり前だと思っていますが、釈尊はそれらを一切否定しています。
しかし、釈尊は決して建前で言っているのではありません。
釈尊の教えは悟りに基づいたものですからそこには建前や手加減などありません。
真理に手加減や手心があったらそれはもはや真理ではなくなってしまいます。
真理とは建前でも本音でもなくまさに「あるがまま」でしかないのです。
この節の最も難しい点ですが、この真意を見落としたら遺教経の真価を見落としてしまうと言われても過言ではありません。
「自分にはできない」のではなく、できることを目指すことが「修行」です。
逆にいえば「修行」とは、それが「できるように目指すこと」なのです。
まさに「堪忍」の極致を突き付けられた思いですが、修行と悟りには妥協がないことを改めて思い知らされます。
悟りは「無心」であり「無我」です。
釈尊は、腹を立てたり憎んだりするのは自分に我があるからだといわれます。
我があるから腹を立てる。欲も膨らむ。だから無我にならなければならないのです。
無我になれば例えどんな事にでも腹を立てなくなれる筈ですから。
腹を立てれば、それは報復を生み、報復は相手と同じ行為になるのです。
恨みに対して恨みで返すことは相手と同罪です。
だから「悟り」「無我」になれれば、例え自分が殺されてもなお相手を恨むことのない世界が開けるのです。
そう、「悟り」はまさに究極の境涯たる所以です。
「まこと、恨み心はいかなるすべをもつとも、恨みを懐くその日まで、ひとの世にはやみがたし。 恨みなきによりてのみ、恨みはついに消ゆるべし。こは易(かわ)らざる真理なり。」(法句経)
恨みに恨みを以ってすることは、永遠に恨みが無くなることはないのです。それが真理なのです。
「悟り」「無我」の中には私情はありません。私情こそ煩悩なのです。
人は誰もが生まれたときは、きれいな鏡のような心をいだいていたのに、煩悩という「痴」によって「貧」と「瞋」が成長してしまうのです。
「災難の時は災難に会うがよろしく候。病む時は病むがよろしく候。死ぬ時は死ぬがよろしく候。」と、良寛さんも言われています。どのような災難であっても受け入れてしまえば、何一つ腹が立つことはなくなるのです。
これと同じ意味が、御開山道元禅師の「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という一句です。
まさに達観の一句です。
仏教では、この世の中を「娑婆」といいます。
「サーバ」が語源で忍土、堪忍土、忍界と訳されています。
この世界に住む我々人間には、内面にはさまざまな煩悩があります。
八万四千だとか、百八つだといいますが、その数字は人の煩悩の数は無限だということを表しています。
さらに外面には、地震、風雨災害、雷、火事、交通事故等さまざまな災難があります。
だから釈尊は、娑婆世界こそまさに「四苦八苦」「一切皆苦」だと説かれているのです。
そんな堪忍しなければ生きてゆけないそんな宿命の世界にわれわれは生きているのです。
だから、堪忍できるということは、戒律を守ることよりも、夜も寝ないで坐禅することよりもずうっと功徳があり尊いことなのです。それをマスターできた人を「有人の大人」つまり菩薩というのです。
しかし、怒りでも、悪を正す怒りもなくてはなりません。
どんな悪い事に対しても怒らず、何もしない、出来ないとしたらこんな理不尽はありません。
釈尊がここで指摘される「怒り」は、もちろん我欲や非道から生まれる怒りについてのことです。
悪に対して怒ってくれる、そのためにおられるのが「不動明王」です。
釈尊が悟りを求めて修行をしている最中に挫折させようと押しかけてきた魔王達を降魔の印で降伏させたという、その心印が「不動明王」だといわれています。
愚かな悪魔どもを撃退したのが、あの忿怒の形相であり、右手に持つ宝剣です。
その怒りの凄さを表しているのが背後に燃える迦桜羅焔(カルラエン)です。
左手に持つ縄は、悪党どもを縛り上げる智慧の縄であり、右手に持つ宝剣は悪党どもの邪悪な心を一刀両断にしてしまうための智慧の太刀なのです。
一見恐ろしい憤怒のお姿はまさに人々の邪心に対する怒りであるのです。
短気で怒りっぽい人や欲望に振り回されやすい人こそ「お不動さま」におすがりすることをお勧めします。
腹が立ったとき、一息つくと冷静になれます。
お不動さまはそれを教えてくれます。
合掌