観音経 --その8--
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無尽意。若有人。受持六十二億。恒河沙菩薩名字。復尽形供養。飲食衣服臥具医薬。於汝意云何。
是善男子善女人。功徳多不。無尽意言。甚多世尊。仏言。若復有人。受持観世音菩薩名号。乃至一時。礼拝供養。是二人福。正等無異。於百千万億効。不可窮尽。
無尽意。受持観世音菩薩名号。得如是無量無辺。福得之利。
無尽意、若(も)し人有りて、六十二億恒河沙(ごうがしゃ)の菩薩の名字を受持し、復(ま)た形を尽すまで、飲食、衣服、臥具(がぐ)、医薬を供養せん。汝が意に於いて云何(いかん)。
是の善男子善女人の功徳多しや否や。無尽意、言(もう)さく。甚(はなは)だ多し、世尊。仏言(のたま)わく、若し復(また)人ありて、観世音菩薩の名号を受持し、乃至(ないし)一時(ひととき)も礼拝供養せん。是の二人の福、正に等しうして異なること無し。百千万億劫に於ても、窮め尽すべからず。
無尽意、観世音菩薩の名号を受持せば、是くの如きの、無量無辺の福徳の利を得ん。
「無尽意菩薩よ、もしある人が数えることが出来ないほどの多くの菩薩の名号を称えて、さらに自分の寿命の有る限り飲食、衣服、臥具(がぐ)、医薬などを菩薩方に供養したならば、供養したその人に多くの功徳があるのだろうか」とお釈迦様は無尽意菩薩に質問しました。
「六十二億恒河沙の菩薩」とありますが、恒河沙とはガンジス河の砂のことです。
そのガンジス河の砂の62億倍の数の菩薩ということになります。つまり無限の数の菩薩ということです。
菩薩には地蔵、普賢、勢至、弥勒、文殊などが有名ですが、実は菩薩には他に名もない多くの菩薩がおられるのです。
そんなこれらの多くの菩薩の名号を称えるばかりではなく飲食や衣服などのいろいろな「物」を供養したならば大きな功徳があるのか。というのがお釈迦さまの問です。
これに対して無尽意菩薩は「甚だ多し。世尊よ」
「それはそれは大きな功徳がありますよ、お釈迦さま」と答えられました。
するとさらにお釈迦さまは「若し復人ありて、観世音菩薩の御名を授持し、乃至一時も礼拝供養せん。
是の二人の福、正に等しうして異なること無し。百千万億劫に於いても窮め尽くすべからず」と説かれました。
次にある人が観世音菩薩の名号を称えて、たとえ一時であっても礼拝したならば、その人の功徳は前者の人とまったく同じであって異なることは無いと断言されたのです。
さらに「百千万億劫に於ても、窮め尽すべからず」と述べられています。
百千万億劫という未来永劫に観世音菩薩の名号をお称えしたとしても観音様の功徳は讃え尽くすことはできないと申されています。
そしてお釈迦さまは「無尽意菩薩よ、観世音菩薩の名号をお称えすれば、そのような無限の福徳が得られるのだよ」と申されました。
さてこの段のテーマは功徳についてです。
そしてその最大のポイントは、功徳には差が無いということです。
観音さまを供養するのに一生のあいだ多くの物をお供えし名号をお称えし供養した人も、たった一時の礼拝供養をした人もその授かる功徳は同じだというのです。
時間的にも前者は寿命が尽きるまで、つまり一生をかけて供養するのに対して、後者はたった一時の礼拝供養であるのです。
一生という時間と一時という時間の差も受ける功徳に差は無いというのです。
いかがですか?
納得されますか?
多分あなたはそんな理不尽はないと思っているでしょうね。
なんと不公平なことでしょう。そう思うのがあたりまえですね。
多分あなたのこれまでの人生の中でも思いも依らない「理屈」ではないでしょうか。
な~んだ仏教なんてそんな不公平なものだったのかとガッカリしたかもしれませんね。
しかし、ここで投げ出したらそれこそ元の木阿弥です。
この一見理不尽と思われる教理のその心髄が分かった時こそ菩薩の心が理解できた時なのです。
決して人間界の常識は仏界においては非常識だということはありません。
仏界の常識が正しく理解されていないだけなのです。
たとえば人間界の常識では物や金の大小によってほとんどの価値が決まってしまいます。
時間も同じことがいえます。
お釈迦さまはそんな人間界の常識は「妄想」だとして大鉈を降られたのです。
そんな妄想に侵されている一つがこの「功徳」に対しての考えです。
お迦様は決して功徳を否定してはいません。むしろ「はなはだ多し」と明言されています。
功徳は大いに有るとおっしゃっているのです。
仏教とは一言でいえば修善奉行(善行のすすめ)、諸悪莫作(悪行の禁止)の教えです。
その仏の教えを信じ精進することで与えられる果報が功徳です。
仏教は「功徳の教え」であると言っても過言ではありません。
問題はその「功徳」が正しく理解されていないところにあるのです。
「ほんとうの功徳」の意味をしっかり理解しなさいというのがお釈迦様の狙いなのです。
「功徳」を広辞苑でみてみると、「善行の結果として与えられる神仏のめぐみ、ごりやく」となっています。
われわれは幼い頃から「善いことをすれば善い果報がある」「悪い事をすればそれが因果応報となって自分に返ってくる」そう教わりそう信じてきました。
さらに、人は頑張れば頑張っただけ報われる。
だから努力をすることが大事だとそう信じ子ども達にもそう教えてきました。
頑張った分の見返りや果報が有ると信ずるのが人間社会の「常識」「良識」ではないでしょうか。
それを、お釈迦さまは仏様への供養において、一生の間それこそ文字通り一生懸命供養しても、他方それが一時の礼拝供養だとしてもその両者の間で受ける功徳に何ら差はないと申されているのです。
当然功徳が有るのはわかりますが、問題は何と言ってもその不公平感です。
長い間頑張った人も少しの時間頑張った人も受け取る果報が同じだとはとても納得できません。
かなりな難問ですね。
でもこの問題が解決できなければこのページの意味がありません。わたしの責任も重大です。
でもその答えは歴然として有るのですよ。それを私なりにズバッと答えてみましょう。
まず「功徳」について最もよく知られている達磨大師と梁の武帝の問答を紹介しましょう。
景徳伝灯録に載っている話(わ)です。
菩提達磨といえば、インドから中国に禅を伝えた禅宗の初祖です。
この達磨大師がはじめて中国へやってきたとき、国王でもある梁の武帝と問答を交わします。
武帝は達磨大師に向かって問いました。
「朕は、即位してから今日まで、多くの寺院を造り、経を写し、多くの僧を育成してきました。
これらの行為はどのような功徳がありますか?」
これに対して達磨大師は「無功徳」と答えました。
武帝はさらに「どうして功徳がないのか?」と訊きました。
達磨大師はさらに答えました。
「此れ但(ただ)人天(にんてん)の小果、有漏(うろ)の因にして、影の形に随ふが如し。
有ると雖も実に非ずと。」
そんなものは、この迷いの世界におけるちょっとした因果の報いで、影が形につきまとっているようなものだ。幻のごときもので、実際にありはしない。と申されたのです。
さらに武帝は訊ねます。
「では、真の功徳とはなにか?」
達磨大師曰く
「悟りの浄らかな智慧は、完全無欠なものであり、゛空゛である。真の功徳は、世間的な標準では捉えられない」
武帝は自分では善いことを沢山やってきたのでさぞ達磨大師からおほめの言葉がいただけると思ったのでしょう。しかしそんな鼻っ柱は完全に叩き折られたのです。
ほんとうの功徳とは「完全無欠なものであり、゛空゛である」というのです。
「空」であるというのは「とらわれない」「こだわらない」ということです。
「とらわれ」や「こだわり」とは見返りや報酬を「意識」することです。
武帝が「どのような功徳があるのか?」と訊ねましたね。
明らかに「お誉めの言葉」を意識したのです。名誉という報酬を期待しての質問だったのです。
ところが、゛善行゛と思っていた行為は単なる「名誉欲」の裏返しにすぎなかったのです。
だから達磨大師はすべて「無功徳」と切り捨てたのです。
武帝のそんな「見返りの意識」を見抜きその迷いを一刀両断にしたのです。
しかし残念ながら武帝には最後までその真意は伝わらなかったようです。
真の功徳には一切の「こだわり」や「とらわれ」が有ってはならないのだと言っているのです。
どんなに゛善行゛と言われるものであってもそこに些かのこだわりがあったらそれはもはや善行でも布施でも功徳でもないのです。
真の善行とは一切の下心の無い行為を言うのです。
真の善行が真の布施になるのです。
真の布施の結果もたらせるものが真の功徳なのです。
いいですか。ここが肝腎なところですよ。よ~く心してください。
ほんとうの功徳を理解するにはほんとうの布施の意味を理解しなければなりません。
ここでちょっと余談も交え布施についてもう少し深くお話しましょう。
一般的に布施と言いますとまずお坊さんへ上げる金を思い出す人も多いでしょう。
でもお坊さんも在家の人に対して布施をしているのですよ。
ご承知のように法要や説法などの「法の布施」をしているのです。
お坊さんの務めが「法施」であり、そのお坊さんは在家から「財の布施」つまり「財施」を受けているのです。
ただこの場合は「お」を付けて「お布施」と言って゛区別゛しているようです。
布施は一切の「こだわり」や「とらわれ」の無い行為だと申しました。
だから「お布施」には「定価」が無く、中身が問われないのです。
また見返りや商売ではないので、お坊さんはけっしてお礼は言いません。
「ありがとう」という言葉は見返りに対して言う言葉だからです。
(余談ですが)愚僧もエラそうなことを言う割にはいまだに(ちょっとだけ?)お布施の中身が気になるのはまだまだ修行が足りないからでしょうかね。イヤハヤどうも恥ずかしいことです。
財の布施と法の布施、これを二施(にせ)といいます。
そしてその布施は清浄でなければならないということでお坊さんはお布施を受けるときには次の偈文をお唱え致します。
財法二施 功徳無量 檀波羅蜜 具足圓満 乃至法界 平等利益
(ざいほうにせ くどくむりょう だんばらーみつ ぐそくえんまん ないしほっかい びょうどうりやく)
布施はすべからく三輪清浄(さんりんしょうじょう)でなければならないということです。
三輪とは、施す人と受ける人と施物の三つを言います。
清浄とはその三つが空(くう)であり、無相であるということです。
空であり無相であるということは一切の「こだわり」や「とらわれ」が無いということです。
「あの人に施してやった」「これだけのことをしてやった」という思いは「こだわり」であり、何らかの見返りや報酬を期待する気持ちなのです。
布施とはすべからく「喜捨」でなければなりません。喜んで捨てる気持ちです。
捨てる気持ちには後に何のこだわりも残りませんからね。
だから真の布施には「善行」という意識すら有ってもならないのです。
「ああ今自分は善いことをしているな」というその意識がすでに「こだわり」だからです。
このように三輪清浄という布施の精神はたいへん深遠なものですが、この価値観こそ精進する人が求めるべきものなのです。それがあってこそ浄土の世界が出現するのです。
さて、どうですか?
もう大体お分かりでしょう。
布施の結果として現れるのがほんとうの「功徳」だということが。
さらに私の持論を言わせていただければ、「真の功徳」とは「無功徳」であるということです。
一般的に無功徳とは文字通り功徳が無いものと理解されていますが、ほんとうの功徳とは無功徳そのものだということです。
つまり「功徳」を意識したとこがすでに「功徳の報酬」を意識したところなのです。
だからその「功徳意識」のないところの功徳でなければならないのです。
これを無功徳といいます。これこそ「真の功徳」と言うべきなのです。
ちょっと難しいでしょうか。
つまり物の大小や時間の長短で価値を決め付けているのが人間社会の常識です。
それは「功徳」に対しても同じことでありその内容の大小で価値されているということです。
これこそ大変な迷いであると世尊は指摘されているのです。
真如の世界は「空」であり「無相」であるのです。
「空」に実体はありません。実体の無い物に分別や価値が有る筈がありません。
実体の無い物に量と時間という分別を付けているのです。だからその分別は妄想なのです。
つまり真如の世界には「量」も「時間」も無いのです。すべて空ですから。
即ち真の功徳には「量」も「時間」も無いということになるのです。
これが答えです。
真如の世界、空の世界には「量」の概念が無いのです。
ですから真の功徳には「量」は無いのです。
真の功徳であればその量に関係無く全て平等ということになるのです。
難しいでしょうか。
もうこれ以上は自分で分かっていただくしかありません。
どうかくれぐれも誤解をしないでください。
どんなに供養してもしなくとも同じであり、どんなに布施をしてもしなくても同じであるなどとは夢思わないでください。そのような短絡的な解釈は餓鬼道に通ずるものです。
くどいようですが、念のためさいごにまとめてみます。
こだわりやとらわれのない無心の行為が真の善行であり、それが布施であるということ。
その布施行の結果もたらされるものが功徳であるということ。
分別の一切無い真如の世界は完全無欠で完全平等であるから「量」や「時間」の分別概念が無いということ。
よってすなわち「功徳」にも量と時間という分別概念が無いということになるのです。
さらに、真の功徳とはつまり「功徳というこだわりの意識」を超えた「功徳」であるということ。
だからこれを「無功徳」という。無功徳こそ「真の功徳」であるという。
これが結論です。
無功徳を積むことこそ最高の功徳であるとお釈迦さまは諭されているのです。
ここに仏法最高の法門を観るおもいがしてまさに感激です。
今回はかなり高度な内容でした。すっかり長くなってしまい私も疲れました。
見てくれた方もお疲れでしょう。ここまで見てくれた方に敬意と感謝を申し上げます。
合掌