遺教経 --その4--
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仏遺教経 -四-
戒は是れ正順解脱の本なり。
故に波羅提木叉と名く。
此の戒に依因すれば、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。
是の故に、比丘当に浄戒を持して毀欠せしむること勿かるべし。
若し人能く浄戒を持すれば、是れ則ち能く善法有り。
若し浄戒なければ、諸善功徳、皆な生ずることを得ず。
是れを以て当に知るべし、戒を第一安穏功徳の所住処と為すことを。
戒律は、仏法に正しくしたがい、苦悩から脱して悟りを得る本である。
ゆえに、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)と名付ける。
この戒律の示すとおりに修行するなら、各種の禅定や、苦をととのえる智慧を得ることができる。身心が安らぐ禅定や、多くの苦悩を脱する智慧を得ることができるのであるから、修行者たちは、この浄らかな戒律を守って、戒律を破ったり、戒を欠かすことのないようにせよ。
もし、この戒律をよく守り実行するなら、その人は必ずや禅定と智慧の善法が得られであろう。しかし、戒律を守らないなら、禅定も智慧も得ることはできないであろう。
以上のことを心して、戒律こそ身心安楽のためのもっとも確かな拠り所であることを知りなさい。
仏道の大義は言うまでもなく「悟り」です。
その基本となるのが、戒・定・慧です。
まず「戒律」を守ることで、心が迷わなくなり、そこから心の安定の「禅定」が生まれ、その禅定から悟りの「智慧」が生まれてくるのです。
これを戒・定・慧の三学と申します。
この三学の実践こそ仏道修行者の努めなのです。
本段では、まず「戒」について、その重要性を説き、戒律こそ悟りへの不可欠の拠り所だと示されているのです。
修行者はまず自分の行動を正し慎まなければなりません。
そのためには釈尊から直に戒を授かり、戒名を授かり仏弟子となることから始まります。
出家の場合は得度式を経て比丘、比丘尼となりますが、基本的には在家も出家も戒名を頂くことで正式に仏弟子となるのです。
ちなみに、日本では戒名というと死んでから頂くものだと思っている人が多いようですが、本来は生きているうちに授かるものです。
生前に仏弟子になることにこそ意味があるからです。
自分の戒名も知らないであの世に参ることに疑問を持たない人がなんと多いことでしょうか。
ではここでちょっと「戒」の意味について考えてみましょう。
「戒」には、「つつしみ、いましめ、おしえ、そなえ、きまり」などの意味がありますが、それらを綜合すると「身心を調える」ということになります。
つまり、「身の振る舞い、ものの言い方、ものの考え方」の三業(さんごう)を調えるということです。
三業とは三つの行為、すなわち「身と口と心」の行為を指します。
人の行動はすべてこの三業による行為であり、その内容次第で善行が悪行かの全てが決まるのです。
ですから、人はまさにその三業を"調える"必要があるのです。
「身(振る舞い)、語(ことば)、意(こころ)に悪を作(な)すことなく、この三つの処に心ととのうるもの」(法句経)
釈尊のことを「調御丈夫」(ちょうごじょうぶ)とも尊称します。
それは荒れた人々を調御(ちょうぎょ)するお方という意味です。
「戒」とは、まさに人の三業(身・口・意)を調えるためのものです。
生きている限り煩悩を無くすことはできませんが、"調え"次第で煩悩を減らし、禅定に安穏し、悟りの智慧を受け入れる環境が作られるのです。
ではその主だった戒律を見てまいりましょう。
道元禅師は多くの戒律を十六浄戒にまとめて説かれています。
その基本がまず「三帰戒」(さんきかい)です。
以上の十六浄戒は、釈尊の教える戒律を道元禅師がまとめられたものです。
釈尊から歴代祖師方によって護持されてきた仏戒は、仏弟子はいうまでもなく、一般の人達の信仰生活にとっての基本的重要な規範なのです。
私たち人間社会は、他人に迷惑をかけないための様々な「規律」によって秩序と調和が保たれています。
同じく修行者の世界も多くの「戒律」によって秩序と調和が保たれています。
しかし、戒律が規則と違うところは、戒律は信仰心に基づいた自己抑制と自己改革と自己犠牲を伴っているところです。
仏教に限らず、宗教には必ず自己抑制、自己改革、自己犠牲が求められるのです。
これらはみんな信仰上必然的な帰依心ですが、もし間違った邪教にのめり込んでしまったらとんでもない犠牲を払うことにもなりかねません。
宗教には大変な危険性もあるのです。
そのためにも仏教の「十六浄戒」を学び正しい見識を養うことが必要でしょう。
「若(も)し人能(よ)く浄戒を持すれば、是れ則ち能く善法有り。」
(もし、この戒律をよく守る人であれば、その人は必ず安心と智慧の功徳を得られるであろう。)
もし人それぞれが本能や欲望の赴くままの社会だとしたら、そこには必ず差別と不信と、妬み、裏切り、怨恨などが蔓延り、争い事の絶えない不安と絶望だけの社会になってしまうでしょう。それこそ修羅、餓鬼、畜生の世界です。
人にとっての最大の敵は抑制の効かなくなった煩悩です。
それを制御するためにあるのが規則であり戒律であるのです。
特に崇高な悟りを目指す僧伽社会にあって、お互いが安心して修行に専念できなければ悟りの智慧を得ることなど絶対にできません。
だからこそ釈尊は安心の拠り所となるべき「戒」を最初に挙げて、その大事を説かれているのです。
「是れを以て当に知るべし、戒を第一安穏功徳の所住処と為すことを。」
(以上のことを確認し、戒律こそ身心安楽のための最も確かな拠り所であることを知りなさい。)
そして、釈尊は「戒」と「悟り」を同格に位置づけ、「戒」を受けることが即ち「悟り」であることを強調されています。つまり戒律生活を実践する人は仏そのものであるということです。
「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。
位大覚に同じうし己る。真に是れ諸仏の子なり。」(梵網経)
そして最初の一句こそまさに結論といってもよいでしょう。
「戒は是れ正順解脱の本なり。」
(戒律とは、まさに正しい順序にしたがって悟りの本(もと)になるものである。)
合掌