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仏教講座

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遺教経 --その12--

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仏遺教経 - 十二 -


汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は利を求むること多きが故に、苦悩も亦た多し。
少欲の人は求なく欲なければ、則ち此の患なし。直少欲すら、尚、応に修習すべし。
何に況んや、少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は則ち諂曲して、以て人の意を求むることなし。
亦復、諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として憂畏する所なし。
事に触れて余り有り、常に足らざることなし。少欲ある者は、則ち涅槃あり。是れを少欲と名く。
汝等比丘、当(まさ)に知るべし、多欲の人は利を求むること多きが故に、苦悩も亦(ま)た多し。
修行者たちよ、よく心得ておくがよい。
欲の多い人は、少しでもよけいに儲けたいとい気持ちが強いので、悩みもまた多いのだ。
少欲の人無求無欲なれば、則ち此の患(うれい)なし。直爾(ただちに)少欲すら、尚、応(まさ)に修習すべし。
それに反して欲の少ない人は、自分から求めたり欲しがったりしないから苦しみや悩みがない。
少欲だと心が安らぐのだから、少欲を習い身につける価値がある。
何(いか)に況(いわ)んや、少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は則ち諂曲(てんごく)して、以て人の意を求むることなし。
ましてや少欲は多くのよい功徳を生むのだから少欲をよく習い身につけるべきである。
少欲の人は、出世したいというような欲がないから、へつらいをしてまで、人の歓心を買う必要がない。
亦復(また)、諸根の為に牽(ひ)かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)する所なし。
また、六根に引きずられることもない。
小欲の人は心がいつも淡々としていて、心中に憂いや畏れるところがない。
事に触れて余り有り、常に足らざることなし。少欲ある者は、則ち涅槃あり。是れを少欲と名づく。
そうすれば何事につけても、ゆとりができて不足なものなどなくなり、少欲の者はいつも満たされているので、それが悟りの境涯であり仏の世界になるのである。

釈尊がここからあらためてお遺しになる教えが「八大人覚」(はちだいにんがく(かく))です。
「八」は八つで、「大人」(だいにん)は、仏であり、「覚」はさとりのことです。
よって「八大人覚」とは、さとり(涅槃)にいたるために守るべき八つの徳目という意味になります。

その八徳目は次のとおりです。
1、少欲覚
2、知足覚
3、遠離覚
4、精進覚
5、不忘念覚
6、正定覚
7、修智覚
8、不戯論覚

徳目に「覚」がつくのは、「覚(さとり)」に達するには、それぞれの守るべき旨を示しているからです。
遺教経は、禅門にあっては、修行者の必読の経典として大切にされています。
道元禅師は、「正法眼蔵」の最終巻を「八大人覚」と名づけてこの「八徳目」をあげ釈尊の遺教として尊んでいます。

道元禅師は、この巻で、「さいわいなことに『いま、われら遺教経を見聞(けんもん)したてまつり、習学したてまつる』ことのできた機縁を有難しと感謝します」さらに「これを実修するなら、釈尊に等しいものとなる」と、「八大人覚」の巻を結んでいます。
私たちも道元禅師のこころを体して、釈尊の遺教を学んでまいります。(松原泰道老師)

「汝等比丘、当(まさ)に知るべし、多欲の人は利を求むること多きが故に、苦悩も亦(ま)た多し。」
言うまでもなく、欲望はすべての迷いの根源であり、一切の煩悩の発源地です。
貪欲の人は限りなく利益を追い求めて止むことがなくなります。
いつも金銭や物に捉われ、損得勘定にいつも悩み苦しむのです。
「少欲の人は無求無欲なれば、則ち此の患(うれい)なし。直爾(ただちに)少欲すら、尚、応(まさ)に修習すべし。」
ではどうすればよいのか・・・
それには、「無欲」になることです。
そうすれば欲望も「小欲」になり、余分なものを欲しがらないようになります。
そうすると人は「分を知る」ようになります。
人は分を知ると、与えられただけで満足し、感謝することができるのです。
小欲の人は、多くを求めることがないので悩み苦しむこともなく、いつも安定した幸せな人生を味わうことができるのです。
少欲であれば、欲望に溺れることがなく、心の安らぎをうることができるのです。
だから直ちに修行して小欲を習得し身に着けることが大事です。
「何(いか)に況(いわ)んや、少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は則ち諂曲(てんごく)して、以て人の意を求むることなし。」
ましてや少欲の人は、さらにいろいろな功徳がそこから生じてきます。
欲のない人は、権力者にお世辞を言ったり、おべっかを使う必要がありません。
小欲を実践していると、心が次第に淡白になり、心配事や怖いものがなくなります。
執着心がないから何事にも不足がなくなり、ついには仏道の究極である悟りに達することができるのです。
亦復(また)、諸根の為に牽(ひ)かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)する所なし。
また、眼・耳・鼻・舌・身・意のよる欲望である、見たい、聞きたい、欲しい、触れたいなどの欲望に振り回されることもなく、少欲の人は、淡々として憂いや怖いなどの心配事もなくなります。
何事につけても、ゆとりができてくると不足に感じることもなくなり、少欲にこそ涅槃が開けるのです。
「事に触れて余り有り、常に足らざることなし。少欲ある者は、則ち涅槃あり。是れを少欲と名づく。」
そうすれば、何事にも余裕とゆとりができて不足なものがなくなってくるものです。
少欲の者はいつも満たされているので、それが悟りの境涯であり涅槃の世界なのである。

涅槃とは、「貪欲の炎が消え、瞋恚(怒り)の炎が消え、愚痴もなくなった世界を涅槃という」と、釈尊は説いています。
すなわち、このような心が悟りの境涯であり仏の世界だと言われます。

煩悩の最たるものが「貪欲、瞋恚、愚痴」の三毒です。
毒ですから人の心身を悩まし苦しめ不幸に陥れる、まさに好ましからざる最たる心のはたらきのことです。
ちなみに、「愚痴をこぼす」などと使われますが、「愚痴」はもともと仏教用語で、知(真理)が病になるのが痴であり、釈尊の真理を正しく知らないことがまさに「愚かな痴」になるのです。

さて、本段のテーマは、「無欲」「小欲」です。それは欲こそすべての迷いの根源だからです。
ちなみに、性欲も食欲も人間の本能です。
本能はあらゆる生物が先天的に持っている機能ですから無くしようがありません。
絶対に無くなるはずのないものを無くそうとするその無理が、また新たな苦悩を生むことになるので、そこが問題です。

生身の人間にとって、本能や煩悩を皆無にすることなど実際には不可能です。
しかし、釈尊は決して不可能の事実を無理強いなさっているわけではないのです。
仏教の目指すところは、何度もくりかえしになりますが、あくまで「中道」なのです。

中道とは、「道に的中する」ことです。
道は勿論真理のことです。つまり、真理に的中する、相応するという意味です。
本能や煩悩は無くしたり、断滅することは絶対にできませんが、制止、抑制、調整は可能です。
つまり、本能や煩悩を制御し真理に的中したものにすることが「中道」ということです。

人間が自らの本能や欲望をすべて無くしてしまったら、もはや人間ではありません。
要は、人間が人間であらしめるための「的中」つまり「中道」が求められるのです。
そのために、本能や煩悩を制御・調整して「小欲」になることが修行なのです。

大切な本能・欲望とどう向き合うか、どう共存できるかでその人の価値が決まるのです。
只今、世間は新型コロナウイルスで大混乱を来しています。
世界で感染者が10万人を超えました。収束の見通しもありません。

世界がパニックの様相を呈してきました。
マスクに限らずトイレットペーパーやティシュなどの買い占めに歯止めがかかりません。
この様な時こそ冷静な、まさに的中・中道の判断が必要です。

ちょうどこの手の「欲望」に関わるニュースがありましたので紹介しましょう。
今回のコロナパニックに乗じて、静岡県のある県会議員の男が、在庫で抱えていたマスクをネットオークションで販売し888万円を売り上げたというのです。

マスク一枚普通20~30円のものが85円までに値上がったというのです。
世間からの批判に当人は謝罪会見を行いましたが、「会社名義の物であり、在庫品を売ったので転売ではない」だとか、謝罪の意などまったくは感じられない言い訳会見でした。

一般人ならともかく、県議という公職の立場にありながら私利私欲に流されたのです。
県政を負託された模範となるべき地位の人だけに、そのエゲツナさが問われます。
もし、逆にマスクを寄付したとしたら、888万円では買えない程の感謝と尊敬を受け男を上げたものを。
地元民から「焼津の恥だ」とまで言われ、ケチ男の汚名は一生ついてまわることになることでしょう。

欲望は貧富に関わりません。
金持ちに貪欲な餓鬼もいれば、貧困に喘いでいても他人に施しのできる人もいます。
人間の一生を鑑みたとき、人生に成功するか失敗するかは、欲望の蠢(うごめ)きを真理(道)に的中できるかどうかに掛かっています。

今回の新型コロナウイルスの災難に見舞われ、失業や廃業に追い込まれたり、自ら感染したり、入院したり、さまざまな被害をうけることがあるかもしれません。
しかし、大事なことは「自分さえよければ」などという餓鬼意識などもたないことです。

非常事態のときこそ人としての真価が問われます。
判断に迷ったら、仏様だったらどうするだろうと一瞬でも考えてみることです。
自ずと中道、正道の道が開かれる筈です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺