観音経 --その16--
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爾時無尽意菩薩。以偈問曰。世尊妙相具。我今重問彼。
仏子何因縁。名為観世音。具足妙相尊。偈答無尽意。
汝聴観音行。善応諸方所。弘誓深如海。歴劫不思議。
侍多千億仏。発大清浄願。
爾(そ)の時に無尽意菩薩、偈(げ)を以って問うて曰(いわ)く、世尊は妙相(みょうそう)を具(ぐ)したまう。我(われ)今重(かさ)ねて彼を問いたてまつる。
仏子(ぶっし)、何の因縁をもってか名(なづ)けて観世音と為(な)す。
妙相を具足(ぐそく)したまえる尊(そん)、偈をもって無尽意に答えたまわく。
汝(なんじ)聴(き)け、観音の行(ぎょう)は、善(よ)く諸(もろもろ)の方所(ほうじょ)に応ず。
弘誓(ぐぜい)の深きこと海の如く、歴劫(りゃくごう)にも思議(しぎ)せられず、多くの千億(せんのく)の仏に侍(つか)えて、大清浄の願(がん)を発(おこ)せり。
この「観音経」は文体上二つに分かれています。
これまでは長行(じょうごう)と言って散文で説かれているのに対して、これより後半は偈頌(げじゅ)といって韻文で説かれています。
この形式は大乗仏教の経典の特徴ともいえるもので、法華経のほとんどはこの形をとっています。
散文とは普通の文章であり、論理的に順序を追って教えを説いています。
これに対して韻文は詩であるので芸実的な表現とともにその内容を直観的情緒的に把握できるのが特徴と言えるでしょう。
つまりこの段から「観音経」は偈頌(げじゅ)の形式になります。
この段以下を「世尊妙相具・・・」から始まる「偈文」ということで一般的には「世尊偈」(せそんげ)と言っています。
「爾(そ)の時に無尽意菩薩、偈(げ)を以って問うて曰(いわ)く、」
無尽意菩薩が、偈頌(げじゅ)を以って世尊に質問されたという一文で始まっています。
それに対して世尊もまた偈頌で答えているという形になっています。
これは内容的には前半の散文の内容をもう一度偈文で説いているということです。
何だ、それなら同じことだからもう一度聴く必要はないではないかと思われてしまうかもしれませんが、それは早とちりというものです。
何故わざわざ同じような内容が偈文で説かれているかということを理解する必要があります。
散文は理屈で縷々説いてきたものです。
それに対して韻文は詩ですから理屈を超えてさらに直感的、情緒的に理解できるのです。
そういった効果的な意味もあって重ねて韻文で説く必要があったのでしょう。
そう理解していただければと思います。
「爾(そ)の時に無尽意菩薩、偈(げ)を以って問うて曰(いわ)く、世尊は妙相(みょうそう)を具(ぐ)したまう。我(われ)今重(かさね」て彼を問いたてまつる。」
無尽意菩薩が世尊に対して重ねて観世音菩薩のことを質問されたのです。
世尊とは勿論お釈迦さまのことであり、世に尊敬されるお方、世の中で最も尊い人という意味です。
その世尊は妙相、すなわち優れた特相を具えているのです。
無尽意菩薩とは何度もふれてきましたが、無尽の誓願の心をもって、無尽の悩める衆生を済度しようと発願された菩薩のことです。
この観音経ではこの無尽意菩薩が発起人となり、観音さまを主演として、演出をお釈迦さまがなさっていると考えたらどうでしょうか。
「我」とは無尽意菩薩、「彼」とは観世音菩薩をさします。
その無尽意菩薩が世尊に対して重ねて観世音菩薩のことを質問されたのです。
「何の因縁で観世音菩薩と名づけられたのですか?」
「仏子」は観音菩薩を指しています。
ここに一人の仏子がおられますが、どういうわけでこの菩薩のことを観世音というのですか、とお釈迦さまに問われたのです。
菩薩にはそれぞれの働きによって様々な名前があるのです。
菩薩には、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、虚空蔵菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩などが有名です。
弥勒菩薩はおよそ56億7千万年後に現れ衆生を済度される未来仏です。
文殊菩薩はバラモンに生まれた実在の人物で、釈迦十大弟子の一人で「智慧」の菩薩と言われます。
普賢菩薩は文殊菩薩とともにお釈迦さまの脇侍菩薩として、また白象の背で胡坐している姿が一般的ですが慈悲と行の菩薩です。
虚空蔵菩薩は智慧と福徳の菩薩で、虚空蔵とは無限の宇宙を意味し、無限に内蔵されている智慧と福徳を施すとされています。
勢至菩薩とは衆生の無知を救うための智慧の光とともに往生する衆生を極楽浄土に迎えます。
地蔵菩薩の地蔵とは大地と胎内という意味の合成語ともいわれています。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、人々の苦悩をその無限の大慈悲の心で包み込み、救わんとするところから名付けられたとされています。
「重ねて問う」という無尽意菩薩の質問に対して「妙相を具足したまえる尊、偈をもって無尽意に答えたまわく」とあるように世尊お釈迦さまは偈頌(げじゅ)でもって答えられたのです。
「妙相」とは世尊の特相を称えての言葉です。偉大な世尊は三十二相を具えていたといわれます。
特相とは例えば、頭の形、額の形、眼の瞳、歯の色、歯並び、声の質、皮膚の滑らかさ、姿勢、手足の柔軟さ、等々、優れた偉人に自ずと現れる身体的な特徴を表したものです。
人の風体にはその人の程度、心の有り様が現れるのです。ですから私たちは毎日己の心を直視し、相好を正すような生活を努めるべきです。
特に人の顔にはその人の毎日毎日の精神生活が結果となって現れてくるのです。
生後の顔は生後の生き様によって作られるのです。
よく自分の顔には責任を持てと言われますね。
顔はまさにこれまでの人生の"履歴書"なのであり、"人生の顔"と言えるのです。
通夜法要の後で私が決まってお話することの一つにお顔の話があります。
亡くなった時のお顔こそその方の人生最後のお顔であり、人生の集大成がそのお顔に表れているのです。
更に故人の今現在のお気持ちが表れているとも言えるのです。
「この穏やかなお顔から察するに、故人はご自分の人生に満足し、ご家族皆様とご縁者の皆様に感謝されていることがわかります。
我々も皆最後は穏やかなお顔でお別れできるような人生にしたいものです。」と申し上げます。
観音菩薩とはどういうお方ですか、という無尽意菩薩の質問に対して妙相を具えられた世尊は「汝聴(なんじき)け、観音の行(ぎょう)は、善(よ)く諸(もろもろ)の方所(ほうじょ)に応ず。」とお答えになりました。
行(ぎょう)とは観音さまの用(はたらき)ということです。
その(はたら)きは「善く諸の方所に応ず」とあります。「諸」とは全てのという意味であり、「方所」とは「場所」ということであり、「応ず」とは「行かれる」ということです。
つまりこの三千大千世界の宇宙のどんな場所であっても観音菩薩は赴かれるというのです。
この「いかなる場所」というのが本段のポイントですが、なかなかそのポイントを真に理解することが難しいのです。
それは「いかなる場所」のほんとうの「場所」を理解することこそ観音さまの妙力を理解することになるからです。
またちょっと難しくなってしまいましたが、例により「持論」で説明してみましょう。
その「場所」とはこの全宇宙の森羅万象のすべてを指しているのです。
新羅万象とは言い換えれば「存在」そのものですから、「いかなる場所」とは「すべての存在」そのものということになるのです。
つまり、観音さまの用(はたら)きは存在するすべての「もの」の中にあるということになるのであり、「観音さまでないものはない」という理屈になります。
となれば、存在する全てのものはそれ自体「即仏、即観音さま」だということになります。
極論と思われるかもしれませんが、これこそ観音経の結論であるのです。
「仏身は法界に充満し、普(あま)ねく一切群生(ぐんじょう)の前に現ず、」と回向文にあります。
「仏身」とは観音さまだと思ってください。
「法界」とは「全宇宙」を指します。
「一切群生」とは「一切の存在」の意味です。
そうしますと、「観音さまは宇宙の隅々まであらゆる存在の中に充満している」という意味になりますね。
衆生はすべて仏身そのものであるというのです。つまり、「一切衆生本来仏」なのです。
次に「弘誓(ぐぜい)の深きこと海の如く」とあります。
弘誓とは誓願という意味で、大いなる願いということです。
この場合の願いとは地位や名誉やお金が欲しいというような浅はかなものではありません。
それは仏教の願いでもあり目的でもある「四弘誓願」を言います。
菩薩が一切衆生を救おうとして常にお持ちの四つの誓いのことです。
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
「弘誓(ぐぜい)の深きこと海の如く」
観音さまが迷える衆生を救おうしてお持ちのこの大誓願に対する決意の程はまさに海の深さのように深いというのです。
「歴劫(りゃくごう)にも思議せられず」
「歴劫」とは無限といわれる程の永遠の時間という意味です。
「不思議」とは考えや思いをめぐらすことができないということです。
つまり、その観音さまの誓願の深さは永遠という時間をもってしても理解し難いほど深いものであるということです。
「多くの千億の仏に侍(つか)えて、大清浄の願(がん)を発(おこ)せり」
「多くの千億」とは、千億が沢山あるということで、無限の数を指しています。
「仏に侍(つか)えて」とは、仏の指導を得てということです。
無限の数の仏に仕え修行された観音さまはその妙力によって一切衆生を済度するために一大決心をされたのです。
それが「大清浄の願(がん)」であり、四弘誓願なのです。
あらためてその意味を確認したいと思います。
衆生無辺誓願度・・・
衆生は無辺で無数であるが、済度することを誓願します。
煩悩無尽誓願断・・・
衆生は尽きることのない煩悩を持っていますが断滅することを誓願します。
法門無量誓願学・・・
仏の教えである法門の量は無限というほど有りますが、これを学ぶことを誓願します。
仏道無上誓願成・・・
悟りへの修行は無上ですが、達成することを誓願します。
合掌