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仏教講座

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観音経 --その18--

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或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊遶 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或(あるい)須弥の峰に在りて、人の為に推(お)し堕(おと)されんに彼の観音の力を念ずれば、日の如くにして虚空に住せん。
或は悪人に逐(お)われて、金剛山より堕落せんに、彼の観音の力を念ずれば、一毛をも損すること能(あた)わず。
或は怨賊(おんぞく)の遶(かこ)みて、各(おのおの)刀を執りて害を加うるに値(あ)わんに、彼の観音の力を念ずれば、咸(ことごと)く即ち慈心(じしん)を起さん。
或は王難の苦に遭いて、刑に臨み寿(いのち)終らんと欲せんに、彼の観音の力を念ずれば、刀(かたな)尋(つ)いで段段に壊(お)れん。

須弥とは須弥山のことで、仏教の宇宙観からつくられた山で、世界の中心に高くそびえる巨大な山のことです。
その最高峰から突き落とされた時に、観音さまの力を念ずれば、ちょうど太陽が大空に定まっているように落ちることはないというのです。

また、悪人に追われて金剛山から堕ちることになっても、観音さまの力を念ずれば、毛の一本も損じることもないというのです。
「金剛」とは極めて堅いという意味です。
その堅さはあらゆるものを破りあらゆるものから護るという絶対堅固な物や心の象徴の意味で多く使われています。
そのような雄大にして堅牢なる険しい山から蹴落とされたとしても、観音さまの力を念じれば髪の毛一本すら損することはないというのです。

また、盗賊におそわれて囲まれて、危害を加えられようとした時でも、観音さまの力を念ずればその盗賊たちに慈悲心を起こすであろうというのです。
また、国王の命令によって斬首刑にされようとした時、観音さまの力を念ずれば、刀はばらばらに折れてその難を逃れることができるであろうというのです。

本段では、このように四つの危害について説かれていますが、そのどれも人が絶体絶命の状況に置かれたまさに極限状態にあると言えましょう。
特に通り魔事件が日常茶飯事のように起きている現代において誰でもそのような被害に遭うことは十分有り得るのです。
人はそのような時にどうすればよいのでしょう。
観音経はそれに答えています。

これまでに観音さまの第一の使命は人々の畏(おそ)れる心を無くすことだと申しました。
観音さまのことを「施無畏者」(せむいしゃ)とも言います。
「無畏」を施し給う者ということです。
その施無畏者である観音さまを一心不乱に称えることで、観音さまは必ず恐怖心という畏れから救ってくださるのです。

とくに本段での危害の例は人にとってまさに恐怖の極致と言ってよいでしょう。
高い山の断崖絶壁から突き落とされようとしている時。或いは跳び降りなければならない時。
盗賊に囲まれて危害を受けようとしている時。死の刑罰を受けまさに斬首刑に処せられる時。
人の心を持った人にとってこれ以上の恐怖はありません。まさに絶望の瞬間です。

その極限状態の時、人は必ず祈ります。
まず、助かることを心から祈るでしょう。次に助からないと覚悟をしたとしても必ず祈ります。
祈るしかないからです。それが人というものです。そこには善人も悪人もありません。

深甚なる祈りには真心しかありません。
どんな善人であれ、どんな悪人であれそこにあるのは真心だけです。
最後の国王により斬首の刑に処せられるということですが、その人が悪人であれ、善人であれ、それはどうでもよいことなのです。
真に観音さまを祈ることで人はみんな仏心を得るのです。

善人であれ、悪人であれ、どんな人であれほんとうに心から観音さまを信じさえすれば観音さまは一切分け隔てしないということです。
それが観音さまの慈悲というものです。
ですから誰でも一心不乱にただただ観音さまを信じて称名すれば必ず救われるというのがこの観音経の主旨です。

どうですか。あなたは納得できますか?信じられますか? その観音さまが救ってくださる理屈と道理については前回述べた通りですから、ここでは繰り返しません。
ただその精神を信じることができるかどうかが真の仏教徒になれるかどうかということになりますのであとはあなた自身の心次第ということになります。

これまでにも何度も繰り返してきたことですが、この観音経のねらいは観音さまを心から信じることによって自らが観音さまになりきることで悟りを開くことだということです。
悟りを得ることが救われることになるからです。
その狙いの条件からすると、「心」が極限状態にある程効果的なのです。

人は極限状況にあるときほど真剣になれるからです。
躊躇や疑いの余裕が無くなります。
ただただ一心不乱に観音さまをお唱えしおすがりすることができるからです。
その「一心」が「自我」を超えたときそこに観音さまが現れます。
そして観音さまが自分の中に入った瞬間、それが悟りなのです。

観音さまが虚空となり、観音さまが金剛山となり、観音さまが盗賊になり、そして観音さまが刀になります。
「一心」の世界には一切の対立観念がありません。
虚空と自分、金剛山と自分、盗賊と自分、刀と自分が一体の世界が出現するのです。
一心の世界に「死」はありません。だから救われるのです。

「一心」とは「精神」に限った世界のことではありません。
ここで言う一心とは宇宙全体「そのもの」のことです。
それは「仏性」であり「涅槃」のことなのです。
その「一心」について御開山さまは次のように申されています。

「草木国土は心である。心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。
日月星辰は心である。 心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。」(正法眼蔵・仏性)

つまり、この宇宙に存在する全てのものが「心」であるというのです。

「十方の世界のことごとくは、すなわち自己の光明である。自己とは、父母もまだ生まれない以前の鼻の孔である。」「十方の世界のことごとくは、ただ一人とも自己ならざるものはない」(正法眼蔵・十方)
その全てのものは「自己」であるというのです。

「自己とは、父母もまだ生まれない以前の鼻の孔である。」「十方の世界のことごとくは、ただ一人とも自己ならざるものはない」十方世界とはこの宇宙のことであり、その宇宙が自己であり、その自己とは両親が生まれていないそれ以前の鼻の孔であるというのです。

要するに、この宇宙のすべてのものは自己と一体のものであるということの意味ですが、まさに公案ですね。
考案といえば、次の一句もまさに公案と言えるでしょう。
「いま達磨の眼晴や、世尊の鼻の孔が、まるで露柱の胎(はら)のなかにあるようにいうのは、なんとしてであろうか。」(正法眼蔵・十方) 達磨さまの眼やお釈迦さまの鼻の孔が自己とは別のものであると思うのはお釈迦さまの鼻がそこらへんにある柱の中に有るのと同じ理解であるという、皮肉を込めた表現になっています。

「正法眼蔵」がよく難解だと言われますが、それは「眼蔵」それ自体が一大公案だからです。
常識の解釈ではその意味がよくわからないことが沢山あります。
その一つの例がこの「達磨の眼とお釈迦さまの鼻の孔」の喩えですが、まさに公案だと愚僧は捉えていますが、いかがでしょう。

前回にこの観音経もまさに一大公案だと言いましたが、公案の狙いはすべて「悟り」なのです。
人は極限状況下にあってこそ悟れるのです。
無我無心の境地こそ悟りの入り口だからです。
ですから、「南無観世音菩薩」と一心に称えるのと「無・無・無」という無字の公案とまったく同じ理屈なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺