観音経 --その14--
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是観世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中。能施無畏。
是故此娑婆世界。皆号之為。施無畏者。
無尽意菩薩。白仏言。
世尊。我今当供養。観世音菩薩。
即解頸衆宝珠瓔珞。価直百千両金。而以与此。作是言。 仁者。受此法施。珍宝瓔珞。
時観世音菩薩。不肯受之。
是(こ)の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏急難(ふいきゅうなん)の中(うち)に於いて、能(よ)く無畏(むい)を施したもう。
是の故に此(こ)の娑婆世界、皆之(こ)れを号して施無畏者(せむいしゃ)と為(な)す。
無尽意菩薩(むじんにぼさつ)、仏に白(もう)して言(もう)さく。
世尊、我今当(まさ)に観世音菩薩を供養したてまつるべし。
即ち頸の衆衆(もろもろ)の宝珠の瓔珞(ようらく)の価直(あたい)百千両金なるを解きて、而(しか)して以て之を与え、是の言(こと)を作(な)したまわく、仁者(にんしゃ)、此の法施(ほっせ)の珍宝(ちんぼう)の瓔珞を受けたまえと。
時に観世音菩薩肯(あえ)て之を受けたまわず。
本段での内容を噛み砕いてみましょう。
この観音さまは一切衆生が怖畏急難に陥った時、よく無畏を施されます。
よって観音さまのことを「施無畏者」とお呼びするものです。
すると無尽意菩薩が、お釈迦さまにおっしゃいました。
自分はこのように施無畏者と呼ばれるすばらしい観音さまに供養してさしあげたい。
そこで無尽意菩薩は御自分の首にかけておられた美しい宝珠で作られた大変高価な首飾りをおとりになって、観音さまにさしあげようとされました。
「あなた様、どうかこの法施の首飾りをお受け取りください。」と観音さまに申し上げました。
ところが、観音さまはこれをお受けとりになりませんでした。
さて、この「観音経の講話」もいよいよ佳境へとやってまいりました。
本段と次段がこの観音経の集約といってよいでしょう。
それはこの観音経の結論が意図されているからです。しかしそれだけに難解です。
この段には3つのポイントがあります。
1つは観音さまのことを「施無畏者」と名付けていること。
1つは無尽意菩薩から観音さまへ瓔珞の布施が申し出されたこと、その意味が「法施」であったこと。
そして最後に観音さまはこの布施をお受けになろうとしなかったこと等。
これらの理由は一体何でしょう。
まず「無畏施」についてです。
布施といえば財施と法施の2つがよく知れていますが、さらに加えて3つ目にあるのが無畏施です。
無畏施とは字の如くさまざまな「畏れ」から「畏れの無い心」を布施するという意味です。
怖畏急難(ふいきゅうなん)というのは、恐怖や困難に遭うことです。
日常生活のなかには様々な恐怖が存在します。
特に現代という時代は思いがけない突然の事故や事件などの災厄に巻き込まれたりします。
全く関係のない人が突如として誘拐や通り魔に襲れたり、何が起こるかわかりません。
まさに他人事ではありません。
今や外出の際にはいちいち遺言書を書いておく必要があるといったことが冗談とも言えない世の中になってしまいました。
「畏れ」とはそのような直接的な恐怖だけではなく、悩みや苦しみも「畏れ」なのです。
人間の住んでいるこの世のことを娑婆世界と言いますが、娑婆世界とは別名「忍土」、「忍界」とも言われています。
いわゆる四苦八苦の世界です。
「忍土」というように、文字通りあらゆる苦悩に堪え忍んでゆかねばならないのです。
たえず様々な畏れや災厄に遭うのが宿命となっているのが娑婆世界です。
このような忍土にいるからこそその悩みや恐怖から救くってくださる"もの"が必要なのです。
それが「無畏の心」です。あらゆる畏れに対して「畏れの無い心」です。
その「こころ」こそ我らが観音さまが与えてくださるのです。
よって観音さまのことを「施無畏者」とお呼びするのです。
すると無尽意菩薩が、お釈迦さまに申されました。
自分はこのように施無畏者と呼ばれるすばらしい観音さまに是非供養してさしあげたい。
「供養」とは尊敬の気持ちをあらわすために物をさしあげることです。
無尽意菩薩は御自分の頸(くび)に掛けていた瓔珞をはずされてそれを観音さまにさしあげようとされたのです。
瓔珞とは珠玉や宝石などを編んで作られた高価な装身具のことです。
よく観音さまのお姿を像や絵画で見ると頸から胸にかかっていますね。あれと同じ物です。
無尽意菩薩は、「仁者、此の法施の珍宝の瓔珞を受けたまえ」と申されました。
仁者とは相手を尊敬していう言葉で、「あなたさま」という意味です。
「あなたさま、どうぞこの法施の瓔珞をお受けとりくださいませ」と申されたのです。
これに対して観音さまは、あえてこの法施をお受けにならなかったのです。
以上がこの段の説明ですが、まず瓔珞ですが、高価な頸飾りというのですがその実体は何でしょう。
常識からするとこの瓔珞は「物」です。だとするとそれは明らかに「財施」にあたります。
財施とは申すまでもなく、お金や財物など形のある「もの」を布施することです。
ところが無尽意菩薩は「法施の瓔珞」と申しました。あえて「法施」という言葉を使ったのです。
ここに大きな意味があります。
この意味をしっかり把握しないと折角ここまで辿り着いた観音経もその真意から外れてしまいます。
とは言っても、どうですか?かなりな難問ですね。
まず、瓔珞は宝石であり大変価値のある「価直百千両金」の"もの"ですから当然「財施」に当たります。
しかし、その"もの"を無尽意菩薩は「法施」として差し出されたのです。
法施とは法の布施ですから、その「法」の意味をここでしっかり認識する必要があります。
法とは真理です。
真理の法からすれば瓔珞という宝石の実体は真如実相の"もの"ということになります。
真如実相とは「ありのまま」ということであり、一切の分別価値観を超えた廓然無聖の世界のことです。
その真如の世界にあって、瓔珞はそれ自体が真如実相の「法」そのものなのです。
つまり無尽意菩薩は観音さまに真如の法を差し出されたのです。
ところが観音さまはこれをお断りになりました。
なぜこの布施をお受けにならなかったのでしょう。
ここに3つ目のポイントがあります。
観音さまも見ての通り元々ご自分も立派な瓔珞を掛けておられます。
だから「自分にあるから」お断りになったという説も多々あるようですが、私はそのような単純なことではないと思います。
持論ですが、観音さまはご自分で「受けるに値しない」と思われたからです。
なぜそう思われたのでしょう。
観音さまの任務は「無畏施」でしたね。
観音さまは娑婆世界のあらゆるところのあらゆる人の求めに応じてその人の畏れの心を無くして下さるのが務めなのです。
今「任務」と言いましたが、観音さまは任務で無畏施の仕事をしているのではありません。
今又、「仕事」とも言いましたが、観音さまは仕事として行っている訳でもないのです。
観音さまは任務とも仕事とも意識をされていないのです。
ただ自然に、求められるが儘に、ただ無意識に無碍に応じられているだけなのです。
布施を受けるからには布施を受けるだけの"自覚"がなければなりません。
しかし観音さまには「特に自分にはそれだけの務めをしている」という自覚がまったく無いのです。
任務とか仕事で行っているという自覚が無い以上「務め」という自覚すらないのです。
ですから、ご自分は布施を受けるに値するとは思われなかったのです。
どうでしょう。持論ですが、このような説を唱えるのは愚僧だけかもしれません。
では観音さまはなぜただ無心に、ただ無碍にそのような行動が執れるのでしょう。
その答えは次段の中にあります。
そしてそこで観音さまの真のお姿を見ることができれば、あなたはこの観音経の意図するところを会得したことになるのです。
それではまた。
合掌