▲上へ戻る

仏教講座

  1. ホーム
  2. 住職ご挨拶

観音経 --その22--

今まで掲載された仏教講座をお読みになりたい方は右のメニューをクリックして下さい。

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時。持地菩薩。即従座起。前白仏言。世尊若有衆生。聞是観世音菩薩品。
自在之業。普門示現神通力者。当知是人。功徳不少。
仏説是普門品持。衆中八万四千衆生皆発無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。
妙音観世音(みょうおんかんぜおん)、梵音海潮音(ぼんのんかいちょうおん)、彼の世間の音(こえ)に勝れり。是の故に須(すべか)らく常に念ずべし。
念々、疑を生ずること勿(なか)れ、観世音は浄聖にして苦悩死厄(しやく)に於いて能く為に依怙(えこ)と作(な)れり。
一切の功徳を具(ぐ)し、慈眼をもて衆生を視(み)、福聚の海無量なり。是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし。
爾(そ)の時に持地菩薩、即ち座より起ちて、前(すす)んで仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊よ、若し衆生ありて是の観世音菩薩の自在の業(わざ)、普門示現神通の力を聞かん者は、当(まさ)に知るべし、是の人功徳少なからず。
仏是の普門品を説きたまいし時、衆中八万四千の衆生は、皆無等等、阿耨多羅三藐三菩提心を発(おこ)せり。

さて、いよいよこの『観音経講話』も最終の段となりました。
今回のテーマは観音さまの声です。否、「声」こそまさに観音経のキーワードと言ってもよいでしょう。
最後にその観音さまの声とは一体どのようなものなのかを明らかにしてみたいと思います。
そして同時に観音さまは何故「音を観(み)る」と書くのか、その理由も持論で述べてみたいと思っています。

はじめの「妙音観世音、梵音海潮音、勝彼世間音」ですが、多くの解釈書によりますと、「観音さまは絶えず説法されていて、その説法には五通りの声があり、すなわち妙音、観世音、梵音、海潮音、世間音の五音である。」などとしていますが、論理が成り立ちません。拙僧の解釈とはまったく違います。

「妙音観世音」
妙音の妙(みょう)とは言葉で言い尽くせない不思議なものという意味です。
また大変美しい妙(たえ)なるものという意味でもあります。
つぎの「観世音」を観音さまの音(こえ)と訳します。
つまり「妙音」を受けて「観音さまの音(こえ)はたいへん美しく言葉では言い表せないほどのもの」という意味になります。
「梵音海潮音」
次の梵音の梵という字は林に風が吹くという意味です。
海潮音とは文字通り海に広がる海鳴りの音のことです。
つまり「梵音海潮音」とは陸地や海原、すなわち大自然が放つさまざまな音(おと)のことです。
「勝彼世間音」
(彼の世間の音(おと)に勝れり。)
梵音や海潮音などのそれら大自然の音こそ観音さまの妙音(ふしぎなこえ)であり、観音さまの説法であるから世間の音(おと)に勝っているのです。
「世間の音」とは人の世の「人の声」であり「人の常識理論」のことです。
つまり真実の音(梵音海潮音)は人の世の迷いの音(理論)に勝っているということです。
「是故須常念」
(是の故に須(すべか)らく常に念ずべし。)
だからわれわれは常に観音さまを念ずるのです。常にとは、いつでもどこでも、ということです。
「念念勿生疑」(念々、疑を生ずること勿(なか)れ、)
常住不断に観音さまを念ずることができればそこには疑いなどまったく起こりません。
「観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙」
(観世音は浄聖にして苦悩死厄(しやく)に於いて能く為に依怙(えこ)と作(な)れり。)
観音さまは清浄にして聖なる存在ですから、世間の音、つまり悩める衆生のあらゆる苦悩や死厄から救ってくださるとても依怙(たより)になるお方なのです。
「具一切功徳 慈眼視衆生」
(一切の功徳を具(ぐ)し、慈眼をもて衆生を視(み)、)
観音さまにはあらゆる功徳が具わっています。その慈しみの眼でわれわれを見守ってくれています。
あたかも母親が慈愛の眼でわが子を見守るように常にわれわれ衆生を見守っているのです。
そしていつでもどこでも衆生の苦悩の声を聞きつけ、例え餓鬼界であれ地獄界であれその真只中に飛び込んできてくださるのです。
「福聚海無量 是故応頂礼」
(福聚の海無量なり。是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし。)
福聚とは幸福の集まりのことです。それが海のごとく洋々として無量にあるというのです。
つまり福聚の海とは観音さまの無量なる功徳と慈悲のことです。
その用(はたらき)はまさに広大無辺であるから帰命頂礼すべきなのです。

以上でお釈迦さまによる観音菩薩の功徳に対する説法は終わりになるわけです。
「爾時。持地菩薩。即従座起。前白仏言。」
(爾(そ)の時に持地菩薩、即ち座より起ちて、前(すす)んで仏に白(もう)して言(もう)さく、)

そのときに持地菩薩が大衆の中から立ち上がってお釈迦さまの前に進んで申されました。

「世尊若有衆生。聞是観世音菩薩品。自在之業。普門示現神通力者。当知是人。功徳不少。」
(世尊よ、若し衆生ありて是の観世音菩薩の自在の業(わざ)、普門示現神通の力を聞かん者は、当(まさ)に知るべし、是の人功徳少なからず。)

世尊よ、よくわかりました。今、観世音菩薩の自由自在な衆生済度のはたらきを拝聴しましたが、その神通の力を聞かれた者の功徳たるや計り知れないものがあります。

「観世音菩薩品」とはこの『観音経』のことです。
持地菩薩とは地蔵菩薩のことであり、最後に地蔵菩薩が大衆を代表されてこの『観音経』の大功徳を証明されたのです。
拙僧はこの講話のはじめに、観音経は「観音劇場」だという表現をしました。
すなわち主演が観音さまで、観客の代表が無尽意菩薩で、制作演出がお釈迦さまで、そして最後に観音さまの大功徳の証明者が地蔵菩薩という配役です。

「仏説是普門品持。衆中八万四千衆生皆発無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。」
(仏是の普門品を説きたまいし時、衆中八万四千の衆生は、皆無等等、阿耨多羅三藐三菩提心を発(おこ)せり。)

お釈迦さまがこの「普門品」をお説きになった時、八万四千の聴衆は、全員この上ない完全な悟り(皆無等等、阿耨多羅三藐三菩提心)に到りました。

「無等等」とは比べることができない、最高ということです。
「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、梵語のアヌッタラー・サミャク・サンボディーの音写語であり、無上正等正覚と訳します。
さいごに「心」を付けて、その意味は「最高至上の悟りを求める心」ということになります。

観音経の冒頭が、「もし無量百千万億の衆生あって、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞いて、一心に称名せば、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得ん」に始まっていますが、このさいごの「衆中八万四千衆生皆発無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。」の一文が見事に結語となっています。

お釈迦さまの説法に感応したことで全ての聴衆は真実の智慧、最高の悟りに触れ、それを求めて菩提心を起こすことができたのです。
八万四千というこの数字は無量無限の衆生を意味しています。
これから先人類がいつまで続くかわかりませんが、そのすべての人々が最高の悟りを求める心を持つようにとの願いが込められてこの観音経は終わっていると言えるでしょう。

さて、はじめに観音経のキーワードは観音さまの「声」だといいました。
拙僧はこの観音経の狙いを一言で言えば観音さまの「真実の声を聞くこと」だと思っているからです。
それは観音さまの真実の声を聞くことがすなわち悟りであるからです。
ではその真実の声とは一体何でしょう。

先にも述べましたが、「観音」とは「音を観る」と書きますね。
普通「音」は聞くものですが、何故「観(み)る」というのでしょうか。
それは「真実の音」は耳から聞くだけではなく同時に「眼で観る」ことのできるものだからです。
その「観る」ことにまさに大きな意味があります。
それはこの観音経をほんとうに理解するには、「観音」の意味を悟ることにあるからです。
これが拙僧の持論です。

「真実の音」とは即ち「梵音」や「海潮音」なのです。
つまり大自然の音こそ観音さまの声だと悟ることで観音さまのお姿が「観えて」くるのです。
「音」と「物」が同じ「もの」になれば、音こそ姿でありそれがまさに「観音さま」のお姿だと分かるのです。

白隠禅師は「観音菩薩と申すのは、音を観るとの事ぞかし。是は則ち隻手の音(こえ)じゃ。これを悟ると眼が覚める。御眼が覚めると、世界一面観音じゃ。」『寝惚之目覚』と言われています。
つまり音と物との間に区別のない世界、それが観音さまの世界だというのです。
公案「隻手音声」はいわばこの観音さまのお姿を悟るための公案と言ってもよいでしょう。

「音」と「物」が一つになった時こそ「音」が「観」(み)えるのです。
つまりその観えた「音」が文字通り「観音さま」だという次第なのです。
「梵音」や「海潮音」といった大自然そのままが即ち観音さまのお姿だということになるのです。
ですから音が観えない凡夫にはそのお姿は絶対に見えません。この理屈わかりますね。

以前、拙僧はこの観音経の意味する真の現世利益(救われる)とは「悟ること」だといいました。
真に「悟ること」とは観音さまと自分が一体になることだともいいました。
その手段としてあるのが一心称名「観世音菩薩」だともいいました。
それは一心称名で絶対無心の世界が出現するからです。

絶対無心の世界には一切の差別分別がありません。すなわち音と物の差別分別もありません。
林の中を吹き抜ける「梵音」も、海原の「海潮音」も自分自身と一体です。
その瞬間「音」(おと)が観音さまの妙なる「音」(こえ)になるのです。
すなわち観音さまと自分が一体になって救われた瞬間なのです。

以上、この観音経のテーマが「声」だという意味をお分かり頂けたでしょうか。
多分他には見られない奇論かもしれませんが、拙僧はこの持論こそ正論だと思っております。

「是故須常念」だからわれわれは常に観音さまを念ずるのであり、「念念勿生疑」念念疑を持ったらだめなのです。
「観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙」 観音さまは清浄にして聖なる存在ですから、世間の音、つまり悩める衆生のあらゆる苦悩や死厄から救ってくださるとてもたよりになるお方なのです。

人生を生き抜くわれわれ人間にとって災難や苦悩は絶対に避けて通れません。
これらの問題は人類にとってまさに永遠のテーマだと言っても過言ではありません。
それらの問題に対してお釈迦さまは「観音劇場」を制作演出され、みごとにその対処法をお示しになったのです。

観音さまを信じ、心から観音さまの御名をお称えすれば必ず救われるという、この観音経の精神を信じてあなたも是非「南無観世音菩薩」とお称えしましょう。
観音さまは実際にいらっしゃる訳ですから救われるためには人は必ずそうしなければなりません。
観音さまの実在を証明しているもの・・・それがすなわち観音経なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺