観音経 --その12--
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応以比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷身。得度者。
即現比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷身。而為説法。
応以長者。居士。宰官。婆羅門婦女身。得度者。即現婦女身。而為説法。
応以童男童女身。得度者。即現童男童女身。而為説法。
応(まさ)比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷身(うばいしん)を以て得度すべき者には、即(すなわち)比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷身を現(げん)じて、而(しか)も為(ため)に法を説き、応に長者、居士、宰官、婆羅門の婦女身を以て得度すべき者には、即ち婦女身を現じて、而も為に法を説き、応に童男童女身を以て得度すべき者には、即ち童男童女身を現じて、而も為に法を説きたもう。
比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を四衆(ししゅう)、または、四部衆(しぶしゅう)ともいいます。
四部衆とは仏教教団のなかには出家者と在家者をあわせて四種類の信者がいるということです。
比丘は男僧、比丘尼は尼僧のことです。
優婆塞は在家の男の信者で、清信士(しょうしんじ)と訳され、優婆夷は在家の女の信者で、清信女と訳されます。
現在の戒名で信士、信女はここからきているものです。
観音さまはこれら四部衆に身を現じて説法なさるというのです。
次に「応に長者、居士、宰官、婆羅門の婦女身を以て得度すべき者には、即ち婦女身を現じて、而も為に法を説き」とあります。
長者は徳をそなえた富者であり、居士は資産のある在家の仏教修行者であり、宰官は役人であり、婆羅門はヒンズー教の司祭者でありますが、これらの「婦女」とはそれらの妻のことです。
これら婦女の身となって応現し説法されるということです。
最後が「応に童男童女身を以て得度すべき者には、即ち童男童女身を現じて、而も為に法を説きたもう。」とありますように、観音さまは童男童女身に応現して説法されると説かれています。
以上この段では四部衆と婦女人と童男童女がとりあげられ、観音さまはこれらの身に現じられ済度されるというのですが、お釈迦さまのこの段での狙いは一体何でしょう。
それを考えてみたときに私は「平等と区別の法則」だと思うのです。
仏法では法界は一切が「平等」であるとされていますが、実は平等の中にこそ「区別」があるのです。
その一見矛盾すると思われるその平等と区別の関係を理解することが大切なのです。
たとえば仏弟子である四部衆も女人も子供も皆仏弟子としては「平等」です。
しかしその同じ仏弟子でありながらその立場と得道の程度において厳然とした「位」があるのです。
仏も菩薩も比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部衆も男も女も大人も子供もすべてその本質は「仏性」であり皆平等の仏なのですが、その仏にも「位」があるのです。
それが比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷としての位なのです。この「くらい」が「区別」なのです。
これがつまり平等と区別の法則であり、そこには一切の矛盾はありません。
御開山道元禅師は「位」について次のように示されております。
「仏の弟子たちの位は、菩薩にもあれ、たとひ声聞にもあれ、第一比丘・第二比丘尼・第三優婆塞・第四優婆夷と、かくのごとし。この順位は、天上界のものも人間界のものもみな知っているところで、昔からかわりはない。とするならば、仏弟子の第二の位にある比丘尼は、転輪聖王にもすぐれ、帝釈天にもすぐれたものであろう。及ばないところはありえないのである。
ましてや小国辺土の国王大臣の位など及びもつかない。」
「正法眼蔵(礼拝得髄)」
(仏弟子たちの順位は、大乗であろうと、小乗であろうと、第一は比丘、第二は比丘尼、第三は優婆塞、第四は優婆夷の順でなくてはならない。
この順序はいかなる人も知っているところで昔から変わりはない。
とするならば、仏弟子の第二位たる「比丘尼」は女人であっても転輪聖王や帝釈天にもすぐれたものであるし、及ばないところなどありえないのである。・・・ましてや小さな国の国王大臣の位など比丘尼のそれに及びもつかない。)
このように道元禅師の見識からすると、一番大切なものは仏法であり、出家得道しその仏法を求める者はいかなる権威よりも上位にくるという。
地位や権力に対して畏敬や怖れをもつ世俗の観念は仏法から見るならばまったく無価値なものにすぎないものとされているのです。
更にここで注目すべきは、道元禅師は得道修行した比丘尼(尼僧)は、政治家や帝王よりも一段上であるとの見識をはっきり示されている点です。
禅師の尼僧にたいする評価は常に一貫しています。
「得道はいずれも得道す、ただしいづれも得道を敬重(きょうじゅう)すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」「正法眼蔵(礼拝得髄)」
(男女とも修行すれば、どちらも得道することができる。ただ、いずれにあっても、得道せるものは敬重しなければならない。
その観点からすれば男女の差別などまったく論ずる必要はない。これが仏道の絶対の法則である。)
つまり、仏法において男女間に一切の隔たりや差別は無いというのです。
さらに童男童女にあってもしかりです。
「仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。」「正法眼蔵(礼拝得髄)」
(仏法を修行しきたって仏法を語りうるならば、たとい七歳の女人であろうとも、よく四衆の導師であり、衆生の慈父なのである。)
仏道修行をしている者が真に尊いのでありそれがたとえば七歳の小娘であっても仏法を知っていれば比丘や比丘尼をはじめ仏教信者の正に導師であり一切衆生の慈父でもあると明言されています。
つまり、仏法の世界には男であれ女であれ、大人であれ子供であれその間には優劣などの一切の差別は無いのです。
以上を整理しますと、仏教では仏道上の立場と得道の程度による"区別"だけがあるのです。
その仏法上の区別観以外の区別観はすべて「差別観」なのです。
言うまでもなく「差別」は本質を否定するものであり真理とは凡そかけ離れた妄想なのです。
人の価値が地位や身分や出身や裕福さで決まるというのは俗界の偏見であり妄想です。
人のほんとうの価値は仏法という智慧をどれだけ会得しているかということにあるのです。
これが仏教の基本的理念であり絶対の価値観なのです。これを以て今回の結論としましょう。
ちなみに、仏教では「仏・法・僧」を三宝といいます。文字通り三つの宝です。
ほんとうに尊いからこそ"宝"と言うのです。
だからこそ仏教はまずその三宝に帰依することから始まるのです。
思うに、その三宝の一端を担っている「僧」の立場は極めて重大です。
特に現代の僧侶には「住持三宝」の自覚が一層求められているのではないでしょうか。
合掌