▲上へ戻る

仏教講座

  1. ホーム
  2. 住職ご挨拶

遺教経 --その6--

今まで掲載された仏教講座をお読みになりたい方は右のメニューをクリックして下さい。

仏遺教経 -六-


此の五根は、心を其の主と為す。是の故に汝等当に好く心を制すべし。
心の畏る可きこと、毒蛇・悪獣・怨賊よりも甚し。
大火の越逸なるも未だ喩とするに足らず。
譬えば一人の手に蜜器を執りて、動転軽躁し、但だ蜜のみを観て深坑を見ざるが如し。
譬えば狂象の鈎なく、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して、禁制す可きこと難きが如し。
当に急に之を挫いで放逸ならしむることなかるべし。
此の心を縦にすれば、人の善事を喪う。
之を一処に制すれば、事として弁ぜざることなし。
是の故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏すべし。
「此(こ)の五根は、心を其の主と為す。是の故に汝等当(まさ)に好く心を制すべし。」
五根のはたらきはすべて心次第である。だから五根の主である心を制することこそ大事である。
「心の畏(おそ)る可(べ)きこと、毒蛇・悪獣・怨賊(おんぞく)よりも甚(はなはだ)し。大火の越逸(おついつ)なるも未だ喩(たとえ)とするに足らず。」
乱れたり間違った心ほど恐ろしいものはない。五欲に溺れた心は毒蛇、猛獣や強盗よりも恐ろしいものである。
風に煽られ燃え広がっていく大火の恐ろしさの譬えに比べても、それ以上に恐ろしいものである。
「譬(たと)えば一人の手に蜜器を執りて、動転軽躁し、但だ蜜のみを観て深坑を見ざるが如し。」
たとえば、蜂蜜の入った器を手に入れて、うれしさのあまり大変慌てて、その蜂蜜に気をとられ、深い落とし穴に気づかず、その中に落ちて命を失う結果を招いてしまうことにもなる。
「譬えば狂象(おうぞう)の鈎(かぎ)なく、猿猴(えんこう)の樹を得て、騰躍跳躑(とうやくちょうちゃく)して、禁制す可(すべ)きこと難きが如し。
たとえば、凶暴化した象を制御するための鈎を無くしたり、飼っていた猿が逃げ出して木から木へ自由自在に躍り跳び出してしまったら、捕らえようにも手の施し用も無いようなものである。
「当に急に之を挫(とりひし)いで放逸ならしむることなかるべし。」
だから早急にこれらの野性的、動物的煩悩を挫(くじ)き、心を制御することを怠らないことである。
「此の心を縦(ほしいまま)にすれば、人の善事を喪(うしの)う。」
五欲の心を勝手気ままに働かせると、人としての良識や善行を失ってしまうであろう。
「之を一処に制すれば、事として弁ぜざることなし。」
心を本来あるべき仏心に制御できれば、目的や仕事は立派に完成するであろう。
「是の故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏(しゃくぶく)すべし。」
このように、弟子達よ、さらにつとめて仏道修行に邁進し、己が心を正法に服従させよ。

前回は、五根を勝手気ままにさせておくと、限りなく発展してしまって、どうすることもできなくなってしまうので、五根は制御しなければならないというのが主旨でした。

しかし、五根は人間が生きていく以上最も重要なはたらきをする器官です。
五根が備わっているからこそ生物としての感覚のもとに毎日の生活をエンジョイできるのです。

その五根を制御するとは言うものの、実は悪いことをしたりするのは、眼や耳や口などの器官それ自体ではありません。
問題はそれらを司る心です。
五根のはたらきはすべて心の命令によって活動しているからです。

「六根清浄」といっても、眼・耳・鼻・舌・身の五根そのものは本来清浄なのです。
問題はその主である心が汚れることで五根も汚れてしまうのです。
容易に分かる理屈です。

そのことを釈尊は、「五根のはたらきはすべて心次第である。だから五根の主である心を制することこそ大事である。」と教えているのです。

心が六根目の「意」になります。人間の意識こそ五根を使いこなす主人公です。
だからこそ、意(心)を制御することが五根を制御することだと説いているのです。
つまり、心こそ五根の根本であるからまず心を制御することで五欲に溺れたり、道に迷ったりすることが無くなるというのです。

釈尊は心の用(はたら)きの恐ろしさは、「毒蛇・悪獣・怨賊・大火以上」であると述べられています。
本段の主旨はまさにここにあると言えるでしょう。
人間の心は、一度狂い出すとまさに毒蛇や猛獣、盗賊や大火事よりも恐ろしいものになるというのです。

その譬え話として、蜂蜜と象と猿の話が出てきます。
その最初の蜂蜜の話です。たとえば、蜂蜜の入った器を手に入れて、うれしさのあまり、その蜂蜜に気をとられてしまうと、そこにある深い落とし穴に気づかず、とんでもない結果を招いてしまうというのです。

当時のインドでも蜂蜜は貴重な甘味として重宝されてきました。
その蜂蜜を手に入ることで人々は大変喜びました。
人は誰でも貴重なものが手に入った時には喜ぶものです。
ただ、喜びはしゃぎすぎると足下にある危険な落とし穴にさえ気が付かなくなるという譬えです。

蜜器とは、甘い蜂蜜の入った器のことで、それは甘い話や、欲望をそそる儲け話などを喩えたものです。
甘い話に刺激され、その欲望にとって自制心を失うと、話の裏に潜んでいる大きな落とし穴に気付くことが出来なくなってしまうのです。
「深坑」とは、その不幸の落とし穴のことです。

現代ほど甘い話をでっち上げた詐欺の横行している時代はありません。
拙僧宅にもよくおかしな電話やダイレクトメールなどがきます。
ある会社の株を探していて高く買い取るだの、あなたが株主に選ばれた人だの、どれも一見詐欺だとわかるようなものばかりです。

しかし人間の欲望は甘い誘惑に弱いのです。
油断するとつい甘い話に唆されてしまうのです。
最近では、MRI投資ファンド事件がありました。
8,700人から1,300億円を集め、その殆どが消失してしまったとか。
平均一人1500万円もの被害になります。

昭和60年に豊田商事事件がありました。
被害者数万人、被害総額は2000億円という巨大詐欺事件でした。
被害者の会を立ち上げ弁護団を組織したところでお金が返ってくるものでもありません。
人の欲望を逆手にとったこの手の詐欺事件は後を絶ちません。

しかし、この手の被害はお金のない人から見れば皮肉にもブルジョア階級の〝特権〝なのです。
それはお金のない人にとって投資は無縁の話だからです。
確かに、被害者のなかには虎の子の蓄えや退職金を注ぎ込んだ〝庶民〝もいるでしょうが、その〝特権〝にあやかろうとした出来心こそあさましき欲望であり、すべては自己責任なのです。

人はある程度お金を持つと、もっと欲しいという金銭欲が鎌首をもたげるのです。
この欲望はなにも庶民に留まりません。清貧を旨とする僧侶の世界さえ例外ではないのです。
1200年の歴史を誇る日本の仏教の聖地真言宗高野山でさえ甘い投資の罠にはまり15億円騙し取られたというニュースがありました。

ある週刊誌は、「きびしい修行に耐えて高位の聖職者になったとしても、金銭欲の煩悩からは逃れられなかった。証券会社の営業マンが社会的地位の高い傲慢な客ほど簡単に騙せることを知っていたからだ。高野山の高僧は、人間のあさましさと愚かさと傲慢さを身をもって教えてくれたのだ」と、かなり手厳しく扱っています。

話を元に戻しましょう。次に「象」の例が出てきます。
象と牛は、インドでは聖獸として大切にされています。
特に象は文殊菩薩と白象の関係のように宗教的役割も大きいのです。
それはインドでは古来、野生の象を飼い慣らして、人や物の運搬や家畜として深く関わってきたというのが文化だからです。

野生の象を調教するには棒の先に鈎(かぎ)をつけ、その鈎を使って制御したのです。
野生の象に鈎が必要であるように、本能や欲望だけで動こうとする人間の心も、しっかりとした戒律という鈎が必要なのです。

また、よく飼い慣らしたはずの猿であっても、いったん逃げ出して木の上に登ってしまったら、捕らえようとしても手の施しようがなくなってしまうのです。
自由自在に飼い慣らした筈の我が心であっても、一端たがが外れると五欲の世界を勝手気ままに飛び廻ってしまいます。

このように、わたしたちの心は、ほんらい野性的、動物的なのです。
だからこそ早急にこれらの煩悩を挫(くじ)き、心を制御することを怠らないことが大事なのです。
どんなに鍛えたと思っていても、ちょっとした妄念や油断で簡単に崩れてしまうのがわたしたちの心なのです。

五欲によって心が崩れてしまうと、人間としての良識は失われ、終止がつかなくなりまさに本能のまま動き回る野生の動物になり下がってしまうというのが象と猿の譬えなのです。
心こそ本来あるべき仏心に制御させておかなければなりません。
この心がひとたび狂いだすと人間としての徳や名誉に留まらず、財産や健康、命まで失いかねないのです。

人間としての心を失うということは、かけがえのない一生を台無しにするという恐ろしい結果を招くことにもなるのです。
本来あるべき仏心に裏付けられた心をもって日常を送らなければなりません。
さすれば、目的に向かって有意義な幸せな生活が送れること必至なのです。

「是の故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏(しゃくぶく)すべし。」
このように、弟子達よ、さらにつとめて仏道修行に邁進し、己が心を正法に服従させよ。

精進とは、大いなる発奮をもって間断なき修行を続けることです。
よく「精進」を「一生懸命努力する」という意味で使われることがありますが、「努力」と「精進」は違います。
本来「精進」を使うときは、「仏道を求めて」というニュアンスがあるべきなのです。

精進の「精」はお米が青く澄みきっているという意味です。
お米をついてしらげることでお米は純白なものになります。
心や魂も仏道によって念入りに「しらげる」ことで本来の純粋な仏心に磨かれるのです。
そのために精を出すことが即ち「精進」です。

最近では、剣道、柔道などの「道」のつく類でよく使われています。
特に、相撲の横綱などが「相撲道に精進します」などと言っているのを耳にしますが、仏道にあやかったものだと言えるでしょう。

折伏とは、間違った教えをくじいて正法に従い服させることです。
一般に折伏といいますと、相手を説き伏せて従わせるというような意味に使われますが、釈尊は、「相手」ではなく、「汝が心」と言っておられます。

人間の心は実に我が儘なものです。
そのような自分の心を元来の仏心をもって折伏せよと言っておられるのです。
自分の弱い心を早く折伏して元来備わっている仏心に通わせよと教示されているのです。

仏心・・・それこそ悟りのこころです。
悟りと言うとついつい難しく考えてしまうから難しいのです。

では、易しく考えたらどうでしょう。
拙僧的にそれを一言で言うとしたら・・・「無心」でしょうか。

それは、何も考えないこころです。
自分がまわりの全てと一体になるこころです。

そこには、我も欲も、一切のこだわりもない世界が出現するのです。
絶対安定、絶対安心の世界です。
それが、涅槃であり、極楽浄土なのです。
・・・やはり難しくなってしまいましたか。

合掌

曹洞宗正木山西光寺