遺教経 --その7--
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仏遺教経 -七-
汝等比丘、諸の飲食を受けては、当に薬を服するが如くすべし。
好きに於いても悪しきに於いても、増減を生ずること勿れ。
趣に身を支うることを得て以て飢渇を除け。蜂の花を採るに、但だ其の味いのみを取って、色香を損ぜざるが如し。
比丘も亦た爾なり。人の供養を受けて、趣に自ら悩を除け。多く求めて其の善心を壊ることを得ること無かれ。
譬えば智者の牛力の堪うる所の多少を籌量して、分に過して以て其の力を竭さしめざるが如し。
以上、本段においては、釈尊は、出家仏弟子たちに特に食事に対する戒めを示されています。
人が生きていく上で食事は最も大事なことです。
それだけに、仏道修行に精進する者として特に心得ておくことがあるのです。
釈尊は、まず、出家仏弟子においては、「飲食(おんじき)を受けては、当に薬を服するが如くすべし。
好きに於いても悪しきに於いても、増減を生ずること勿れ。」と訓戒されています。
第一に食事は大切な身体を養う「良薬」であると思って頂きなさい。
薬であると思えば適量でなければなりません。
良い薬ほど量を間違えると体にとって毒になるからです。
美味しいからといって余計にいただいたり、まずいからといって少しにしたり、頂かなかったりしてはなりません。
食事という生命をいただいて生きている私たちは、嗜好や貪欲まかせの食事であってはなりません。
食生活の乱れは、即ち人間生活そのものの乱れになります。
なにごとも節制の無いところに苦しみの種が生まれるのですから。
「趣(わずか)に身を支うることを得て以て飢渇(きかつ)を除け。蜂の花を採るに、但(た)だ其の味いのみを取って、色香を損ぜざるが如し。比丘も亦(ま)た爾(しか)なり。人の供養を受けて、趣(わずか)に自ら悩を除け。多く求めて其の善心を壊(え)することを得ること無かれ。」
食事の量は、飢えや渇きのない心身の健康が維持できる程度におさえなさい。
たとえば、ミツバチはいろいろな花に集まってその蜜を採るけれども、その花自体の色や匂いは決して侵したり損ねたりしません。
この譬えは、出家仏弟子に対して托鉢(たくはつ)の心得を述べられているのです。
釈尊の時代、比丘の食事はすべて托鉢することで得ていました。
托鉢は、くださる方のお気持ちだけを頂くのであって、自分から求めたり選り好みをしたり、必要以上のものを求めたりして施主の気持ちを傷つけてはならないというのです。
どんな物でも鉢(食事の器)の中に入れてくださる物をいただくのです。
布施されるものは相手次第ですから、時には肉や魚が入ってくることもあります。
でもそれらもすべて頂くのです。
よく、僧侶は動物性のものは食べないとされていますが、それは原則であって、当時一切の経済活動をしていない立場にある僧がそんな"贅沢"は言ってはおれなかったのです。
生産活動のない僧にとって、衣食住のすべては人々からの布施によって賄わなければなりません。
仏の教えを人々に施すかわりに財や食の施しを受けるのです。
そのための「行」が「托鉢」であり、「乞食」(こつじき)ともいいます。
ちなみに仏の教えもなく、ただ食を乞うのを乞食(こじき)といいますが、まったく異なったものです。
「譬えば智者の牛力の堪うる所の多少を籌量(ちょうりょう)して、分に過(すご)して以て其の力を竭(つく)さしめざるが如し。」
たとえば智慧のあるものはその牛の力量を斟酌して、応分の荷物を背負させ、決して牛に負担をかけ過ぎたり苦しめたりすることはしません。
そのような心得を持って出家仏弟子たる者は、布施してくださる者の気持ちを害したりしてはなりません。
ある日のこと、釈尊はいつものように乞食をされていました。
ある貧しい家で、「たいへんよいお話を聞き、生きる希望が湧いてきました。
しかし、ご覧のとおり、貧乏で差し上げる物は何もありません。
このような物でもよければ」といって差し出された物は、赤ん坊のおしめに使っていた布切れでした。
釈尊は、それをありがたく頂き洗って袈裟の一部にされたのです。
インドでは、サリーという布を肩から掛け身体に纏って服装にしています。
釈尊は、捨てられた布切れなどを拾い集め洗って継ぎ接ぎしてサリーにして纏ったのです。
これが「お袈裟」のはじまりです。
使い古され捨てられた布切れは最後には黄土色になります。
梵語で黄土色や混濁食を「カシャーヤ」と言います。
これが音訳されて「袈裟」となったのです。
袈裟や絡子(らくす)の布が格子状になっていますが、それは、継ぎ接ぎの意味であり、袈裟はまさに布施の象徴なのです。
ちなみに「布施」って、「布を施す」と書きますね。
すなわち布施の起源がここにあるのです。
禅宗では食前に「五観の偈」という五カ条からなる次の偈文を唱えてから箸をとりますが、この教えこそ遠く遺教経にあると思われます。(法話:22年8月分参考)
一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を計って供に応ず。
三つには心を防ぎ過を離るるは貧等を宗とす。
四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。
五つには成道の為の故に今この食を受く。
一口為断一切悪、二口為修一切善、三口為度衆生、皆共成仏道
このお経は、修行者、仏弟子に向けた教えですが、現代の一般の人々にも、まったくそのまま通用する教えといえるでしょう。
食事は、自分の人格形成のために感謝を込めていただくものだからです。
人間が人間として正しく生きてゆく基本は「感謝」です。
たとえば、食事に対して感謝をもってのぞむことができないならば、ほかのすべての生活場面においても感謝のもてない生活になってしまうでしょう。
食事によって感謝の基本を学ぶのです。
道元禅師は「典座教訓」を著し、食事についてその意義を説かれました。
ここには、人の食事に対する根本的な心得として、それを調理するに当たっても、それをいただくにしても、食べ物に感謝し、その生命と自分の生命を尊重することの大きな意味が説かれています。
そのなかで特に「三心」(喜心、老心、大心)を説かれています。
どんな仕事も仏の行事であるから「喜心」で臨むこと、どんなものにも仏性があるので慈しみの親心「老心」で接すること、修行と悟りは一体のものであるから偏見のない「大心」で臨むことを示されています。(法話:21年9月~11月参考)
世の中一般では、食事は空腹を満たして栄養を補充し体力をつけるために採るとされていますが、特に現代では食事の行為そのものが大きな楽しみであり「娯楽」にもなってしまいました。
昨年日本の和食が世界文化遺産にも登録され、益々食の芸術、文化が享受されようとしています。
しかし、世界的には、およそ10億人の人が飢えで苦しんでいるといわれます。
これは総人口7人に1人の割合です。
食を楽しむのも結構ですが、人として大事なことは食事の本当の意味を認識し、量を量って、感謝していただくことではないでしょうか。
さすれば、健康と幸せは必然的にやってくる筈です。
ちなみに、当山の「法話」のページ「病気にならない生き方」を参考にされてください。
合掌