▲上へ戻る

法話

  1. ホーム
  2. 住職ご挨拶

法話--平成17年10月--

合掌

仏様を供養するのにいろいろな形があります。
お灯明をあげる。お線香をあげる。お供物をあげる。そして、お塔婆やお経をあげる。
このようないろいろな形がありますが、いつでも、どこでも、何も無くても出来るのが「合掌」ですね。
今日はこの一番簡単な、合掌について考えてみましょう。

人はほんとうに心からお願いしたり、お詫びをしたりしようとすると自然と「合掌」してしまいますね。
また、相手に合掌されて何かを頼まれたり詫びられたりすると無碍にはできません。
つい相手の気持ちを受け入れたりしてしまいます。
また、逆にすなおな気持ちを表そうとすると自然と合掌の姿をしてしまいます。

なぜでしょう。
それは、合掌に「まごころの姿」が表れるからなんです。
合掌することにより純粋な自分になれるからなんです。純粋の心こそ仏心なんです。
仏心の表れが合掌であり、合掌の姿で人は仏様になれるんです。
このように両手を合わせると10本の指が一体になりますね。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏と10界ありますね。
この10の世界がちょうど10指だとすると、10界が一つになった形が合掌なのです。
10界が一つになるということは、一切の差別や区別が無くなるということです。
自他の分別が無くなり、自分が宇宙であり、宇宙が自分であり、この世があの世であり、あの世がこの世であり、自分が仏であり、仏が自分であるという涅槃の世界が出現するのです。

仏様を拝むということは自分が仏様と一体になるということです。
仏様と自分、あるいは自分と他人、自分と全ての対象物が自他の領域を越えて一体に成る。
ご開山様道元禅師はこれを「同事」という言葉で示されています。
「自にも不違なり、他にも不違なり」です。

ところで、こんな詩を作ってみました。

どなたでも
合掌すればほとけさま
あなたがほとけ
わたしがほとけ

あなたでも
合掌すればほとけさま
あなたがわたし
わたしがあなた

わたしでも
合掌すればほとけさま
わたしがあなた
あなたがわたし

ところで、普段みなさんはどの位合掌しているでしょうか。
ほとんどしていないのではないでしょうか。
せめて家にお仏壇がある人は少しは合掌しているかもしれませんが、それでも朝晩のお仏壇詣りは特定の人におまかせでそれ以外の人たちはほとんど「拝むこと」のない生活ではないでしょうか。

よくクリスチャンは日曜日ごとに教会に行ってミサに参加し牧師のお話を聞くことが日曜日の務めだとされています。
仏教徒は日曜日ごとに菩提寺にお詣りしていますか。
していないと思います。仏教徒はそれだけ信仰心が無いのでしょうか。

イヤそうではありません。
仏教徒は毎日お寺にお詣り出来ない代わりに自分の家の中にお寺を持ち込んでしまったのです。
お仏壇は菩提寺の本堂と同じものなんです。いわばミニ本堂なんです。
我らがご先祖様が毎日毎日仏様をお詣り出来るようにとの想いを形にした結果なんです。

ところが現状はどうでしょう。
折角のグットアイデアによる伝統が失われかけようとしています。
合掌する習慣もほとんど無くなってしまいました。
よく、分家した方が「うちはまだ先祖がいないから仏壇はありません」とか言うのをきくことがありますが、先祖のいない人が居る筈がありません。

自分が独立したら、家にお仏壇とご本尊様とご先祖様をお祀りして供養をするのが本来の仏教徒の務めなんです。
新しく家を建てたりすると「家移り念仏」をしますね。
仏教徒の家には必ず仏様がお住まいなんです。
我々は仏様と一緒に住んでいるんです。

朝に夕にお参りして、仏様ご先祖様に供養し感謝することこそが肝腎なんです。
子や孫はその姿を見て成長します。
おじいちゃんやおばあちゃんの後ろ姿から文化が伝えられるんです。
核家族の時代と言われ、文化や躾の伝承もままならない状態です。
昨今の社会の乱れや子供達の不安は当然のことのような気がします。

こんなときだからこそ仏教徒はもっと信仰の自覚をもってお仏壇に手を合わせましょう。
合掌すれば心が安定します。安定はストレスを除きます。
現代の多くの病気の一番の原因はストレスだと言われています。
ストレスの無い状態こそが健康で一番のしあわせなんです。
色々申しましたが、結論としては、やはりほとけ様を拝めばしあわせで長生き出来るということです。

どなたでも
合掌すればほとけさま
わたしがほとけ
あなたがほとけ

報恩感謝の教えこそ仏教なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺