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法話

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法話--平成27年12月--

テロリズムの正体とは -ほんとうの幸福とは-輪廻からの脱却-

12月8日はご存知釈尊のお悟りを讃える成道会(じょうどうえ)です。
降誕会(4月8日)、涅槃会(2月15日)と並び「三仏忌」の一つで、仏教寺院ではどこでもそのご遺徳に酬いる報恩供養をいたします。

仏教とは文字通り、仏陀のみ教えであり、その教えは仏陀の成仏得道(成道)から生まれ、その敷衍が仏教であることはいうまでもありません。
その仏教の目指すところは、言うまでもなく人の真の幸福にほかなりません。

釈尊はお悟りにより「如来」となりました。
これは「真如来人」の略で、「真如(真理)から来た人」という意味です。
その如来が説かれた真理の一つが人生「一切皆苦」という真実です。
つまり、「人生はすべて苦である」ということです。

では、人にとってほんとうの楽はあるのでしょうか。
仏教の言う「大安心」とは一体何のことでしょうか。
どうすれば「ほんとうの幸福」を得ることができるのでしょうか…当然の疑問です。

成道会に因み今回はそれにお答えしましょう。
結論から言えばそれは「輪廻」からの脱却です。
インドでは元来一般的な考えで、生命あるものは生まれて死ぬ、そしてまた生まれるという、生まれ変わりを延々と繰り返すという輪廻思想がありました。

仏教もこの思想を取り入れています。
この生まれ変わりを繰り返す世界こそ、苦の世界であり迷いの世界である輪廻の世界なのです。
そしてその実態がすなわち三界六道なのです。

三界六道の世界がすなわち「一切皆苦」の世界なのです。
ですからこの「輪廻」からの脱却が同時に三界六道からの脱却であり、まさに仏教の目指すところの「大安心」であり「ほんとうの幸福」なのです。

ところで三界とは、輪廻の世界を精神的境地の視点から欲界、色界、無色界の三つに区分したものであり、欲界とは感覚的な欲望の世界であり、色界とは欲望のない物質の世界であり、無色界とは純粋に精神だけの世界のことです。

六道とは、いうまでもなく、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の世界をいいます。
そのうちでも地獄、餓鬼、畜生の三つは極めて苦が大きいので三悪趣、もしくは三悪道といわれます。
また三途ともいわれ「三途の川」の由来となっています。

これに対して阿修羅、人間、天を総称して三善趣とか三善道といいます。
以上、これら三界六道のうちで生まれることと死ぬことを延々と繰り返すことがすなわち輪廻です。

人間界は天上界とともに古来「人天の楽果」といわれ、楽の多い優れた世界であるというのが普通の認識です。
「人生は苦である」といわれても「結構楽もあるじゃないか」「人生苦があるからこそ楽がある、仏教は妙なことをいうものだ」と思われる方も少なくないと思います。

しかし輪廻の世界での「楽」は大いなる錯誤なのです。
それは、本能的、官能的なまやかしだからです。
真の楽とは絶対安心(あんじん)でなければなりません。
その世界をすなわち「極楽」というのです。

天上界は、苦は少なく寿命も長く膨大な楽に満ちた世界とされます。
しかしそこは五衰も寿命もあるれっきとした苦と迷いの世界なのです。
「寅さんシリーズ」で有名な葛飾柴又の帝釈天や毘沙門天、弁財天など天がつくのはすべて天上界の住人であるインドの神のことです。

六道の中で最高に優れた者の世界とはいえ、そこはまだ解脱していない者の輪廻の世界ですから、業によって六道のうちのいずれかに生まれ変わることになります。
つまるところさまざまな苦の世界の繰り返しにほかなりません。

そんな輪廻のサイクルからの脱却がすなわち解脱です。
人類で初めて解脱された人、それが釈尊であり、解脱によって仏陀となられました。
仏陀となれば二度と三界六道に堕ちることはありません。

つまり仏陀こそ「ほんとうの幸福」ということになります。
したがって仏教では、この苦と迷いのスパイラルから脱却することこそが最大の命題であり、全ての人は仏道に精進し「ほんとうの幸福」の仏陀を目指せ、というのが仏教の基本的理念なのです。

一切の苦悩から解放された絶対安楽な世界、それはまさに六道輪廻のない涅槃であり極楽浄土なのです。
しかし涅槃とか極楽というと一般的には死後や来世をイメージしてしまいます。しかしそれこそ大いなる誤解です。

真如涅槃の世界は般若心経にもあるように生も死も超越した「不生不滅」の世界ですから、そこには今生も来世もありません。
涅槃には輪廻が無いからです。
三界六道はすべて「迷いの身にある」のです。(法話平成18年5月分参考)

12月8日は、仏教徒にとってまさに「法乳の慈恩に酬いる」特別な日です。
しかし、奇しくも70年前のこの日、日本は太平洋戦争に突入したのです。
日本人戦没者だけでも約310万人に上りました。何という因果でしょう。

「すべての者は暴力におびえる。すべての者は死を恐れる。自分に引き寄せて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(法句経)との教えに従って、我々仏教徒に限らず今日を生きる日本人は皆あらためて強い不戦の決意を持つべきです。

12月9日には作家野坂昭如さんが85歳で逝去されました。
彼が最後まで言い続けたのが、「戦争をしてはいけない。巻き込まれてはならない。戦争は何も残さず悲しみだけが残るんだ。」という言葉でした。

常に時代の寵児だった野坂さんだけに、晩年身を削って訴え続けた「戦争反対」の声は特別の重みがありました。
「生命、財産、文化、伝統を守っていくのは軍事力ではない。どんな戦争も自衛のためと言って始まる。そして苦しむのは世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ顔向けできない」と叫ばれていました。

自らの戦争体験を基に書かれた小説「火垂るの墓」はまさに戦争の悲惨さと不条理さを謳った実に悲しい物語です。
終戦直後の混乱の中で必死で生き抜こうとする親を亡くした14歳と4歳の兄妹の餓死までを描いた物語ですが実に感動ものです。

すでに世界中で多くの人に読まれていて不朽の名作との評価を得ています。
拙僧も最近ユーチューブでそのアニメと映画をはじめて見ました。
個人的感想としては、アニメでありながら描かれている少女のなんともいたいけな表情と仕草に特に感動しました…歳甲斐もなく涙が止まりませんでした。

戦後70年、あれだけの悲惨な犠牲を経験したにも拘わらず「戦争アレルギー」も厭戦の気持ちもかなり風化してしまっているように感じます。
世界でISによるテロ行為が頻発しています。中国、北朝鮮の脅威も確かに問題です。

日本政府は防衛の名の下に戦争準備を着々と進めています。
集団的自衛権に対する賛成派も反対派も、どちらも思いは同じ戦争抑止なのですが、問題は方法論に対する見解の相違なのです。

その賛否に対して今「どちらとも言えない」という中間派が増えています。
迷っている人が増えてきているということでしょう。
「目には目、歯には歯」と、とかく人は感情論に流され勝ちですが、冷静に仏教に鑑みて判断すれば自ずと正しい答えは出てくる筈です。

「どんな戦争も自衛のためと言って始まる。騙されるな。」という野坂昭如さんの言葉をもう一度噛み締めたいものです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺