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法話

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法話--平成19年1月--

--恩 (その6)― 恩義 ― --

恩という字は心の上に「因」が乗っています。
因は「基づくもの」、「受け継ぐもの」という意味です。
人はみんなさまざまな"もの"を受け継いでいるのです。
それをしっかり"心"の上に乗せているのが"恩"です。
これは以前にも申し上げました。

これまで幾度も四恩(父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩)についても触れてきましたが、今回はその"お陰"である「恩義」について考えてみました。

じぶんが生まれてきたのは父母やご先祖のお陰です。(父母の恩) じぶんの今があるのはあらゆる環境のお陰です。(衆生の恩) じぶんの命と生活が護られているのは国家社会のお陰です。(国王の恩) じぶんの永遠の命が保証されるのは大宇宙の因縁のお陰です。(三宝の恩)

しかし、どうでしょう。
今や日本の家庭、学校、社会にこの恩義が感じられません。
父母の恩を感じないから、虐待やいじめ暴力、兄弟殺人が起こるのです。
衆生の恩を感じないから、自然破壊、環境破壊が起こるのです。

欠陥ガス器、欠陥自動車、細菌入りお菓子、捏造テレビ番組が平気で作られるのです。
国家の恩を感じないから、賄賂、不正談合、脱税、子どもの給食費逃れが起こるのです。
三宝の恩を感じないから、健康や命が粗末に扱われるのです。

四恩といってもそれぞれが別個のものではありません。
父母の恩だけが有って他の恩は持って無いとか。
三宝の恩だけ有ってほかの恩は持って無いとかはありえません。
恩はみんな根元は一つのもので全てが繋がっているのです。

その恩義の欠落によって人は利己的、利欲的、貪欲的、短絡的、自堕落的になってしまうのです。
それはともすると動物にも劣りかねません。

畜類なお恩を報ず、人類いかでか恩を知らざらん。(道元禅師)

人の悲しい行為や犯罪の原因の多くにこの恩義の欠落があるといっても過言ではありません。
人は恩義を感じることで感謝し切磋琢磨し他人に優しくなれるのです。

その恩義を教え育てるところが家庭であり学校であり政治であるのです。
しかし残念ながら今の日本には誇れる躾も教育も政治もありません。
親も教師も政治家もすっかり自信を無くしてしまっています。

教育方針は政治行政によって決められます。
つい先日「教育再生会議の第一次報告最終案」が出ました。
残念ですが、斬新的なもの、画期的なものはありません。

(1)ゆとり教育を見直し、学力を向上する。
ゆとり教育が何故だめなのか。ゆとりがないから子どもがおかしくなっているのです。
ほんとうの"ゆとり"の意味がわかっていないのです。
学力も確かに大切です。ですが学力至上主義の方向に偏ると弊害が起こるのです。

誤解しないでください。
私の言いたいことは、本当のゆとりとは人にとって大切な智慧を教えることだということです。智慧とは哲学と情緒と愛です。
これこそ人が豊かに平和に送れる人類不変の原理ではないでしょうか。

(2)出席停止制度の活用、立ち入り支援、警察との連携。
子供の鑑は大人です。
こどもを悪くさせている張本人は大人自身であることが全然分かっていません。
悪いと決めつけて出席を停止させてしまうのは教育の放棄です。

難しい子供こそ親身になってその心を理解しようと努めるべきなのです。
悪いと決めつけて警察にまかせるとはまったくあきれてしまいます。
子供の心はどんどん離れていってしまうだけです。

(3)魅力的で尊敬できる先生を育てる。
メリハリある給与体系、教員免許更新制導入。
給与や免許更新制度と先生の質の問題はあまり関係ないと思います。
先生に必要なものは哲学と愛情です。

問題教師に良い給料をあげても免許更新しても資質と素質は変わりません。
資質のある先生を育てるには、子供の教育とまったく同じではじめから哲学と愛情でしっかり育てる以外にはないでしょう。

(4)すべての子どもに規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する。
(2)と同じで、鑑としての大人が問題なのです。
規範意識の無いのはむしろ大人社会です。
純粋な子供に必要なのはしっかりとした大人社会の模範なのです。
子供自身に責任転嫁するのは問題です。

(5)反社会的行動を取る子供に対する毅然たる指導のための通知等の見直し。
何度も言いますが、最初から悪い子供なんていません。
子供は百パーセント環境で育つのです。その環境とは大人社会のことです。
なぜそれに気が付かないのでしょうか。
毅然たる指導は大人社会にこそ必要なのです。

どうですか?どれもみな押しつけ、排除、強制の理論で一貫しています。
哲学が有りません。情が有りません。
なぜ今の子供がこうも問題になったのか、その根本が論議されていないのです。
私は情と哲学が子供に与えられなかったからだと思うのです。
情と哲学とはすなわち"恩義"の教えです。

恩義が無くなったから子供の心は荒みいじめや暴力が先行するようになってしまったのです。
排除や強制では絶対に恩義は育ちません。

何度も言いますが子供に罪は無いのです。
子供は庇護されるものなのです。
すべて責任は大人社会にあるということを認識すべきです。

その教育の元はと言えば政治です。
その政治が教育と同じようにすっかり疲弊してしまっています。
"芯"に哲学が無いから毅然とした「まつりごと」ができないのです。

政治も教育と一蓮托生ですから、教育が悪くても政治は良いとか、政治が悪くても教育が良いなどということはありません。
ついでに申し上げれば家庭も社会もそうです。

みな同じ世界の同じ環境の中の有象無象なのです。
世は末法だから仕方がない、などと言うのは無責任です。
一蓮托生だからこそ他人事ではないのです。

そして大切なことは、恩義とは一方的なものではないということです。
子供は親に恩義がありますが、同時に親は子供に恩義があるのです。
生徒は先生に恩義がありますが、同時に先生は生徒に恩義があるのです。
家庭は学校に恩義がありますが、同時に学校は家庭に恩義があるのです。
国民は国に恩義がありますが、同時に国は国民に恩義があるのです。

この理屈難しいでしょうか? でもこれは仏教の当然の理論なのです。
一蓮托生とはそういうことです。
この理論からすると、子供は国に恩義がありますが、同時に国は子供に恩義があるということになります。

難しく考えなくとも、国は未来を子供にお願いするのだから当然でしょう。
政治は子供に恩義があるということです。
常にこの観点に立った行政がなされれば良い教育ができると思うのですが。
どうでしょうか?

しかし、その政治も今右往左往しています。
今の日本は大変な格差社会にあると言われます。
マスコミもその政治責任を連日とりあげています。
阿倍政権の不人気もこのせいだと言われています。

同じように働いても報酬に倍程の差があればこれは不条理と言わざるを得ません。
人がもっとも辛く苦しく感じるのは"不条理"です。
不条理とは本人の責任ではどうすることもできないことを言います。
この不条理の気持ちが蓄積すると国家や社会に対する不信、不満が高まります。

当然国家社会に対する恩義の情もなくなります。
恩義が無くなると感謝の心は失せて心が荒んできます。
その結果増えるのは犯罪です。美しい国どころではありません。
情けない国になってしまいます。

犯罪の原因としては先にあげた利己的、利欲的、貪欲的、短絡的、自堕落的な気持ちになる他に、あとはこの不条理から生まれた絶望的、自虐的、闘争的、復讐的な気持ちに陥ることにあります。
ですから、こういった不条理を無くすことこそ政治の大きな責任と言えるでしょう。
政治が国民に恩義があるということはそういうことです。

以上述べてきましたように、教育も政治もその基本に恩義の精神が無ければ情の有る教育も政治もできません。
これからの教育と政治の再生を図るならば恩義の教育が是非とも必要であると私は思うのです。

確かに政教分離もよく分かります。
特定の宗教を公立学校で教えるのも難しいでしょう。
私が言いたいのは個々の宗教がもっともっと自然に堂々と主張できる環境の推進に政治が力を入れるべきだということです。

それにはまだまだ宗教に対する誤解や偏見もあるようです。
「宗教」と口にしただけで迷惑顔をされるのが今の日本の社会です。
外国のように堂々と宗教が語れる社会こそ"正常"だと思うのですが、いかがでしょうか?

ともあれ、まずは家庭からです。
信仰は家族相互の敬慕の情を高めてくれます。
感謝の元に家族がまとまります。
それこそ「恩義」のお陰です。
次回は「報恩」を考えています。

合掌

曹洞宗正木山西光寺