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法話

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法話--平成27年6月--

四諦--苦諦その4 病苦その2 病気にならない生き方その22
アレルギーその6

人間はこの地球上にあって、「元々自然の一部であるが故に自然の摂理に則った生き方こそ大事である」・・・これまで何度も繰り返してきた言葉です。
それは、人は類人猿以来何万年に亘り自然のなかで動物として培われてきた免疫力によって守られてきたからです。

言うまでもなく病気のほとんどの原因は免疫力の低下や不足によるものです。
その免疫力が環境の変化に適応しきれないことで発生するというのがこれまで紹介してきたところのアレルギー論です。

そのアレルギー論から推考されるのは、人が動物としての「自然の摂理から逸脱」してしまったところに警告を与えているのがまさにアレルギーの正体だということです。
つまり、アレルギーは人にとって本来的には存在し得ないものだといえるのです。

その本来的に存在しない筈だったアレルギーを"出世"させた張本人こそ「自然の摂理から逸脱」したところの「キレイ過ぎ社会」だったのかも知れません。

その「キレイ社会」が目指した一つに「虫」の排除があります。
特に近現代、急速に発展した西洋医学ではバイ菌と共に「寄生虫」を病原因子と捉え、「排除すべき敵」として扱ってきました。

しかし藤田紘一郎先生は、「人は太古からずっと、『虫持ち』だったのです。回虫やギョウ虫をはじめとする寄生虫を体内に"飼って〟いたのです。 その虫たちが人間に悪さをしなかったのはバランスのとれた共存共栄の関係にあり、宿主の免疫バランスを保つなどの役割を担ってきたから」と言われます。

特に日本人は古来、体に棲みつく寄生虫も身体の一部だと捉えてヒトと切り離して扱うことはしませんでした。
体内の寄生虫を自分の"分身〟とし、その虫たちが病気を引き起こしたり、意識や感情を呼び起こしたりすると考えていました。

それが証拠に、日本語には「虫」のつく慣用句がたくさんあります。
「自分では気が付かなかったけど、虫が教えてくれた(虫の知らせ)」
「私は納得しているけど、虫が嫌がっている(虫が好かない)」

「虫が納まらない」「虫が付く」「虫がいい」「虫の居所が悪い」「虫も殺さない」「虫をわずらう」「虫をころす」「泣き虫」「弱虫」「怒り虫」「浮気の虫」・・・
挙げれば切がないくらい日本人にとっては古来、虫は"無視"できない大切な分身であったのです。

また病気については、「お腹の虫が増えて悪さをする(虫を患う)」などと考えていました。
全国に「虫封じ」のお寺や神社がある背景には、こういう日本人の病気に対する考え方があるようにも思われます。

そんな、虫と共存共栄の"虫持ち"だった日本人ですが、現在では寄生虫の感染率はほぼゼロになっています。
特に戦後米軍の進駐軍が日本に駐留するようになってから徹底した回虫駆除が行われ、日本人の体内にはもはや、回虫はほぼいないと見られます。

戦後、各市町村に「寄生虫予防会」が組織され、小中学校を中心に「回虫駆除デー」が設けられました。
きっかけは、アメリカ人が日本に進駐したとき、生野菜を食べたら回虫だらけでビックリしたことでした。

西洋では日本と違って肥料に人糞を使わなかったので、野菜を生のサラダにして食べる習慣があったのです。
当時日本に駐留したアメリカ人は、免疫のないまま一気に大量の寄生虫が体内に入ったため、お腹をこわして相当苦しんだようです。

駐留したアメリカ人が、日本の生野菜に閉口したので、マッカーサーが直々に吉田首相に「この不潔さを何とかしなさい」と苦言を呈して設けられたのが「回虫駆除デー」だったのです。

拙僧自身団塊世代ですが、子どもの頃時々学校からの指示で全員が虫下しの薬を飲まされていた記憶があります。
回虫が出てきたらそれを何かの入れ物で学校に持って行ったような気がします。
回虫はだいたいが野菜から体内に侵入します。
当時は野菜を育てる肥料はほぼ人糞でしたから日本人は回虫保持者が普通だったのです。

人糞はそのままでは使えませんから保存し発酵させて使っていたのです。
その発酵させるためにあったのが、大きな壺の肥溜(こえだめ)です。
当時化学肥料など無かったので肥溜は農家にとって大事な財産だったのです。

余談ですが、昔の子どもは皆元気に野原で走り回っていましたから、そんな中よくその肥溜に落ちたものです。
よくある"事故"でしたが、落ちた時の衝撃は相当なものです。
ショックの上にさらに周りからからかわれるのですから、あの"敗北感"と惨めさは何とも言いようがありませんでした。

ただ、拙僧もいまだアレルギーや花粉症にならないのも、そんな昔の"貴重"な経験の賜物かも知れません。
当時の子供たちは皆自然の中で泥や花粉にまみれながら元気いっぱいでした。
擦り傷や生傷も絶えませんでしたが、お蔭で様々なTレグを身に着けていたのです。

現代は、青鼻汁(あおっぱな)を垂らす"野蛮"な子どもなどまったく見かけないほどのキレイ社会になりました。
そのキレイ志向は一向に衰えません。
その象徴的なものに空気洗浄器や布団ダニクリーナーそして温水便座などが有ります。

昔から人は自然のなかでダニと共存していたのです。
布団の中にダニがいるのは当たり前でした。
だから昔の子どもは幼児期のうちにダニの死骸をたっぷり吸いこんで体内にダニのTレグ免疫を確立させていたのです。

クリーナーなどでキレイすぎ環境のなかで育った子供にはダニのTレグが形成されませんから、免疫のない子どもにはやがてダニアレルギーが発生するのは当然です。
そんなメカニズムも、前回の大阪大学坂口先生のTレグ論を学べば容易に理解できることです。

もう一つの例が温水洗浄便座です。
そのマイナス"効果"として現れだしたのが肛門周辺の炎症です。
ウオシュレット世代にとって、抵抗力を失った肛門付近の皮膚が、かぶれ、ただれなどを起こしやすいのです。
それは、過度に洗い流すことで、お尻を守ってくれている皮膚常在菌を洗い流してしまい皮膚が過敏症になってしまった結果と言えるのです。

「時と場合により、人間に悪さをする菌を排除することは大事ですが、何も悪さをせず何万年の昔から人間と共生している菌まで悪者扱いするのは問題だ」と藤田先生は主張されています。

昔は、アレルギーは元より引きこもりや不登校の子供もほとんどいませんでした。
陰湿ないじめもありませんでした。
それは子どもが自然と調和することで心身共に「自然の摂理」に守られていたからではないでしょうか。

引きこもりやいじめが急増し始めたのは丁度アレルギーの時期と同じ1960年代からです。
引きこもりやいじめが心の「病」だとすると、そのメカニズムもアレルギーの場合と同じように考えられないでしょうか。

核家族化、少子化により幼児期より子どもが過保護による「キレイ社会」ならぬ「大事すぎ社会」に隔離された結果、社会性免疫力を身に着けられなかったという推論です。
まったくの拙僧の持論ですが、「不自然な環境」の中で心が自然に適用する力、いわば心の「社会性Tレグ」なるものが身に着けられなかったという仮説です。

「人は元々自然の一部であるが故に自然の摂理に則った生き方こそ大事である」・・・やはりこれが結論でしょうか。

合掌

曹洞宗正木山西光寺