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法話

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法話--平成20年8月--

こころ(2)-- 菩提心 --

仏教は心の教えだと申しました。
どうしたら人は心の悩みや苦しみを無くすことができるのか。
どうしたら心豊かな完成された人格を身に付けられるのか・・・それを仏教は教えているのです。

人の価値は正に心の有り様で決まると言っても過言ではありません。
ですから仏教はどうしたら心を豊かにすることができるのか、その実践的な方法を教えてくれているのです。

その教えについてこれからいくつか学んでみたいと思います。
その教えが最も分かり易く説かれているのが曹洞宗の教典・修証義の中の「発願利生」(ほつがんりしょう)です。

「菩提心を発(おこ)すというは、己(おの)れ未(いま)だ度(わた)らざるさきに、一切衆生を度さんと発願し営むなり。
たとい在家にもあれ、たとい出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。
たとい在家にもあれ、たとい出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。」(修証義第十八節)

「発願利生」の「利生」とは利益衆生(りやくしゅじょう)を切り詰めたものです。
利益は利済(りさい)とか済度(さいど)という意味です。
つまり衆生を済度するということです。

「衆生を済度する」というとあまりにも高尚なことのように思われますが、それは決して大それたことではなく仏教徒であるならば当然求められることなのです。
平たく言えば、「人の為に尽くす」ということです。
この心を即ち「菩提心」といいます。

その心とは、自分のためよりも先ず他人のためを考える心のことです。
人はふつう自分のことを先ず第一に考えます。
自分にとって自分以上に大事なものはありません。
自分こそ最も尊い存在なのですから、この感情は人として当たり前のものです。

しかし、菩提心は違います。
いつも自分のことより他人のことを心配しているのです。
この心を起こすことを発菩提心(ほつぼだいしん)とか発心(ほっしん)と言います。

「菩提心を発(おこ)すというは、己れ未だ度らざるさきに、一切衆生を度さんと発願し営むなり」 菩提心を起こすこととは、自分のためよりも先ず他人のため、たとえ自分は彼岸に度らずとも、まず一切の他人を度さずには自分自身は決して度らないという利他の心こそ菩提心だということです。

「済度」とは、迷いの「此の岸」から悟りの「彼の岸」へ衆生を「わたす」ということです。
「わたす」とか「わたる」という場合には、「渡」という字を書くのが普通ですが、度も渡も同じ「わたす」という意味で使われます。

「発願し営むなり」の「営む」とは、「実際に行ずる」という意味です。
どんな立派な決心でも実行がなければ絵に描いた餅です。

「たとい在家にもあれ、たとい出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。」 この一段は前段の補足といってもよいでしょう。

「たとい在家にもあれ、たとい出家にもあれ、」とは、在家、出家を問わずということであり、「或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、」とは、天上界、人間界を問わずという意味です。

「苦にありというとも、楽にありというとも、」とは、悪業の果報として、地獄界、餓鬼界というがごとき苦界に居ても、あるいは善業の果報を受け天上界という楽界に居てもという意味です。
要するに業の果報によって今現在如何なる身の上にあろうともということです。

「早く自未得度先度他の心を発すべし。」 文字どおりに読み下せば、「少しでも早く、自らは未だ度ることを得ざる先に、他を度さんとする心を発するべきである」ということです。
それにしても、楽界に居る者はともかく、地獄・餓鬼・畜生・修羅・というが如き苦界の衆生が果たして「自未得度先度他の心」という律儀な心を起こすことができるのでしょうか。
自己中心の我利我利亡者故にその業報により苦界に堕ちた輩に菩提心という高尚なものを期待すること自体所詮無理なことではないでしょうか。

いやいやそうではありません。
ここにこそ菩提心の奥義があるのです。
今現在、楽界にいる衆生は余裕があるからとか、苦界にいる衆生は余裕が無いからとかの問題ではないのです。
楽界や苦界に居ることと菩提心を持つことに資格や差別はないのです。

いや、むしろ苦界にいる者こそ功徳は大きいとも言えるのです。
地獄・餓鬼・畜生・修羅などの悪趣の世界にこそ仏陀は救いの手を差し延べているのです。
苦界に堕ちている者こそ救われなければなりません。
その彼らが救われる道は只一つ彼ら自身が菩提心を持つことです。

「菩提心」は善人だけのものではありません。
悪人には持つ資格はないなどというものでは決してありません。
例え善人であれ悪人であれ、或いは裕福にあっても貧困にあっても、どんな境遇にあっても「菩提心」を持つことに一切の資格も制限もないのです。
菩提心を持つことで苦界から救われるという、そこに仏陀は大慈悲心をもって復活の道を開いているのです。

ですから菩提心を持った者はみな「菩薩」となって自ら救われるのです。
過去はどうであれ今ここで菩提心を持つことで誰でも「菩薩」になれるのです。

普通「菩薩」と言えば娑婆世界の衆生を済度するためにわざわざ仏界から降りてきて働き回る仏さまのことを言います。
ご承知のように観音菩薩、虚空蔵菩薩、日光菩薩、月光菩薩、弥勒菩薩そして地蔵菩薩などなどいろいろな菩薩がおります。
でもそのような有名な菩薩だけが菩薩ではありません。

繰り返しになりますが、菩薩とは菩提心を持った者であれば悪人・善人の区別なく菩薩になれるのです。
我が身を顧みずにただただ苦境にある人達を救おうという一大決心をした人が即ち観音菩薩であり地蔵菩薩であるのです。

ところで、史上最大規模と言われた北京オリンピックも終わりました。
どの国の選手も国の期待を一心に背負って一生懸命頑張りました。
その中で日本人のメダリストの中には、家族のため、応援してくれた人達のため、さらに自分自身のために頑張ったという人もいました。

金メダルが300万円、銀が200万、銅が100万という報奨金では少なすぎるという意見もありました。
国家プロジェクトとして選手育成にもっと多くのお金をつぎ込むべきだという意見もありました。
オリンピックで勝つことが国の名誉と威信になると思えるからでしょう。

中国もメダルの数こそが最高の名誉だと捉え、まさに国家の威信をかけてオリンピックに莫大なお金を投じました。
大成功だったと自画自賛しているようですが、数々の人権問題を隠蔽してしまった事実を見逃してはいけません。
人権を棚上げして置いて名誉も威信もありえないのです。

それにしてもほんとうにメダルの数が国家の名誉と威信を表しているのでしょうか。
私は何もスポーツに偏見も持っているつもりはありませんが、ただメダルの数が国家の名誉と威信だと捉える感覚はおかしいと思うのです。

私は、真の名誉とはメダルも報奨金も無い中で一生懸命人道援助に尽くしているボランティアの人達こそ名誉だと思うのです。
アフガニスタンで農業支援活動をしていたNGOの伊藤和也さんがアルカイダの標的となって非業の死を遂げました。

「自分はアフガニスタンの土になる」という思いで活動を続けていましたが志なかば31歳の若さで夢を断たれました。その無念さを思うとたまりません。
伊藤さんのお父さんは、「和也は家族の誇り、胸を張って言えます」と話していましたが、彼は家族の誇りだけではなく日本の誇りだと私は思います。

メダルや報奨金のため、或いは家族や自分のために頑張ることも名誉かもしれません。
金メダル獲得者に国民栄誉賞の呼び声も上がりました。
しかし、人道援助に命をかけた人こそ国民栄誉賞にふさわしいのではないでしょうか。
自分のことよりも困窮に苦しんでいる人達を助けることこそ人としての最高の道であり、そこにこそほんとうの名誉があるのではないでしょうか。

さらに、ほんとうの国家威信とは人権が保証され、格差の無い安全で平和な社会であることを伊藤さんは身を以て教えてくれました。
彼と同じ志で活躍されている日本人がまだまだ大勢いることも知りました。
彼らには今後も怯むことなく活動を通して人としての真の名誉とは何かを世界に示してくれることを願ってやみません。

さらに言わせていただければ、日本政府はオリンピックに国家プロジェクトとしての大幅な予算アップを考えるとしたら、その前にメダルも報奨金も無いなかで頑張っているNGOやボランティアの若者にこそ目を掛けるべきでしょう。
日本政府がこれからメダルの数を国家威信に結びつけていくとしたらレベルは中国と同じです。
人権も尊重されない中国と同じレベルの日本政府だったらこれから先期待は持てません。

私は伊藤さんの中に「菩薩」を感じました。
それは彼が「自未得度先度他の心」という「菩提心」を持っていたからです。
そんな菩薩がまだ日本人の中にいたことを私はほんとうに誇りに思います。
そして、日本政府も国民も彼の生き様から真の名誉と国家威信というものを学びとって欲しいものです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺