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法話

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法話--平成29年12月--

廓然無聖 -対立観念のない世界-

前回、ブラジル・サンパウロ市にある曹洞宗両大本山南米別院仏心寺から届いた寺報の中で、御住職采川道昭老師が説明されている「禅の二元論」がとても分かりやすいと述べました。そのご紹介から始めましょう。

「ある日の夜坐(夜の坐禅)の後に、達磨廓然(だるまかくねん)の話(わ)について女性が質問に来ました。彼女は多くの坐禅参加者と同じく、まだ独参(どくさん)に来る機会がなかったので今がチャンスと私を呼び止めたのです。

彼女は『廓然無聖』(かくねんむしょう)について納得がいかないというのです。
この身体(からだ)や世界は聖なるものであるのになぜにそれを否定するかと言うのです。
それに対して私は、その聖なるものであるというのは、人間であるあなたの頭が作りだした観念でしかないと答えたのですが納得がいかなかったようでした。

それで、『世界は人間の好悪や善悪などの意見をつける以前が根本にあるのではないですか。
頭のはたらきが作り出した二元対立以前が根本にありますよ。
言葉は二元対立の中にあるので「無聖」という表現で聖を否定する方法で説いていますが、本当は聖の反対(凡)も否定しており、更には無聖も否定しています。

つまり二元のどちらかを取る人間の頭のはたらきを超えた世界を表しているのです。
生まれた赤子には対立は無いのに、名前を呼ばれながら成長するということは対立概念を植え付けられるということであり、やがて人々はこの対立の中でしか考えを進められなくなってしまっています。

つまり幻の自他、内外、主客などが疑うべからざる確たるものとして存在していると信じてしまっているし、社会もその上に成り立っています。
しかし、世界は、宇宙は対立を飲み込んでいるのが実相ではないですか。』
と言うと、ああ解った!と満面の笑みを浮かべて喜びを表しました。
周囲にいた彼女の友人もそうだそうだと相槌を打って、実相は頭のはたらき以前の世界にある(実相無相)ことを確信して喜んでいる様子でした。

後で解ったことですが、傍にいた友人の女性は哲学科専攻の修士課程で学んでいる人でした。
哲学は言葉や観念を重んじる学問ですから哲学をする人は一般の人々と同じく二元対立の中にどっぷりと浸かっているのだろうと思っていたのですがそうでもありませんでした。

天国と地獄、神と悪魔、善と悪、そして我(自己)と他などを揺るぎないものとして存在していると信じている二元対立の最たるものであるキリスト教世界にあっても、二元を超えた世界、実相に目覚めるという救いの道があることに気が付いている人々が増加していることを感じ、坐禅のすばらしい効力をさらに認識し大いに嬉しくなったものです。合掌」

「頭のはたらきが作り出した二元対立」・・・この「二元対立」を拙僧は自身の法話のなかでは「対立観念」として縷々説明してきたところですが、この采川老師の「二元論」とまったく意を同くするものだと思います。

あと、「独参」をされていることにも興味を持ちました。
曹洞宗では普通独参はしないからです。
独参とは、参禅者が師家と直接対面し公案を通して指導を受けることです。
主として看話禅(公案)を旨とした臨済宗系が行っているものですが、ご老師の独参の内容にいささか関心のあるところです。

釈尊のお悟りを三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)で表しますが、その中の「諸法無我」を説いたのが「非二元論」といえるでしょう。
人間は自我意識のお蔭で二元論という対立観念を抱えてしまっているのです。
この対立観念のない世界こそが「諸法無我」なのです。
(拙ホームページ法話の「諸法無我」(平成17年7月)を参考にしていただければと思います。)

「達磨廓然」とは、禅宗の祖録「碧巌録」と「従容録」の中にある公案で、達磨大師と武帝との問答を著した話(わ)ですが、この公案はまさに「諸法無我」の実相を主題にしたものです。
武帝とは、中国の南北朝時代にあった梁という国の仏教に大変帰依していた王様のことです。

武帝は、「自分は即位以来、多くの寺を建立し、多くの僧侶を育て、自らも持戒清浄につとめ仏法修行に精進しているが、はたしてどんな功徳があるのか」と達磨に問いかけます。
ところが、達磨はそっけなく「無功徳」、つまり「何の功徳もありません」と答えたのです。

武帝は、心のうちに何らかの善果を求めて精進されたのでしょうが、それを「無功徳」だと言われたのです。
常識的には理不尽で理解できません。
言うまでもなく、仏教は善因善果、悪因悪果の因果応報の教えであり、「修善奉行」(善業を修めなさい)「諸悪莫作」(悪い事はするな)に精進せよと説いているからです。

仏教の大帰依者でもある武帝にしてみれば達磨の言った真意がまったく解りません。
称賛の言葉を期待していた武帝にとってさぞショックだったでしょう。
増上慢の鼻先をへし折られましたが、さすがは武帝改めてお尋ねします。

「では、佛教の真義、仏法の根本とは一体何であるか」と質問したのです。
この世の実相は、からりと晴れた青空のようなもので聖とか梵の分別は無く、からりと晴れわたった虚空のごとく、聖と名づけられるものなどないというのです。

武帝はこれ又その意味が理解できません。
「無聖」を「聖者無し」ととらえたのでしょうか。
それでは「朕に対する者は誰そ」(私の前にいるあなたは一体誰ですか。)

この質問に対する答えが「不識(ふしき)」です。
不識とは単なる「知らない」という意味ではありません。
不識の不は、不思量・非思量の不であり、「思量できる存在ではない」という意味です。
「思量すること不可能」これをすなわち「不思議」と言います。

「廓然無聖」と「不識」とは、まさに異語同意なのです。ここがこの公案の核心です。
この二つが解れば「無功徳」もしかり。
「廓然無聖」のなかに功徳なんてものはありません。
だから達磨は武帝の“善業”を「無功徳」と喝破されたのです。
武帝にはまだそこまでの力量がなかったということでしょう。

そもそも果報や見返りを期待して行う行為だったら、厳しい言い方かもしれませんが、偽善行為に他なりません。
人や社会の為に尽くし、善人だと思われたいと思う心があったらそれは単なる「名誉欲」に過ぎません。
名誉欲こそ煩悩の最たるものです。

どんな善業でも「見返りとしての功徳」を“意識”したら、それはただの煩悩です。
如何なる行為も須べからく「布施」でなくてはなりません。
一切の見返りを求めない心にこそ「功徳」があるのです。

が、しかしですよ、達磨はその功徳さえ否定しています。
「廓然無聖」だからです。
廓然無聖の中には「真の功徳」などというものさえないのです。
ここが実に難しいところですが、この公案を透過できるかどうかはまさにここが勝負です。

己さえ悟れば良いとするのが小乗仏教(上座部仏教)ですが、真の悟りには菩提心がなければならないとして仏教は小乗から大乗に進化しました。
その菩提心、その心を持つ者を菩薩といいます。

今年8月105歳で亡くなられた日野原重明先生の生き様に菩提心を感じます。
先生は、ある時から「これからは人のために生きようと決心した」そうです。
きれいごとを言う人はいくらでもいるものですが、先生のそれは本物だと感じました。

昭和45年赤軍派によるよど号ハイジャック事件に巻き込まれ、一時は死を覚悟しながらも生還できたことでまさに人生観が変わったとのこと。
「自分は一度死んだ人間」だと思ったとき、「これからの人生は人のために使おう」と決心されたそうです。その思いで生涯現役医師を貫かれたのでしょう。

禅語に「大死一番大活現成」という言葉があります。
死を乗り越えて臨んだ修行にこそ、本物の命を悟ることができるという意味です。
死を覚悟したことで先生は命の尊さと価値ある生き方を悟られたのでしょう。

繰り返しになりますが、見返りを求めない生き方が菩薩行であり、人のために生きられる人を菩薩といいます。
菩薩は心がけ次第で誰にでもなれるのです。
そのお手本を見事に示されたのが日野原先生ではないでしょうか。

合掌

曹洞宗正木山西光寺