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法話

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法話--平成20年9月--

こころ(3)-- 我欲心 --

「その形(かたち)陋(いや)しというとも、この心を発(おこ)せば、すでに一切衆生の導師なり。
たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも、即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり。
男女(なんにょ)を論ずることなかれ。
これ仏道極妙の法則なり。」(修証義・発願利生)

前回、最も尊いことは菩提心を発すことだと述べました。
出家とか在家とか、今現在苦境にあっても無くとも、更には善人とか悪人とかを問わず、己のことよりもまず他人を先に心配する心こそ「菩提心」であり、その心を持つことで菩薩になるということを申しました。

菩提心とは仏陀の心です。
しかもそれは一切衆生のすべてが持ち合わせている心なのです。
「その形(かたち)陋(いや)しというとも、この心を発(おこ)せば、すでに一切衆生の導師なり。」 「その形」とは容姿風貌のことです。
「陋し」とは「みすぼらしい」とか「醜い」ということです。

人の風貌は様々です。風貌は個性であり百人百様です。
格好良い人もいればそうでもない人もいます。
人は誰でも美男美女を望むのが当たり前の心情かもしれません。
見た目で嗜好を判断してしまうのが人の常かもしれません。

しかし、格好の善し悪しは主観であり、本質の善し悪しとは全く関係無いのです。
人の価値は決して格好の良し悪しではありません。
人の価値を決めるのは只一つ、「菩提心」なのです。
さらに言えば、悪業の果報によって地獄、餓鬼、畜生などの悪趣の世界にいる者はそれなりの風貌をしています。
それは環境と心が風貌をつくるからです。

でも、たとえそのような悪趣の世界にいる者であっても、その「菩提心」を起こせば一切衆生の導師に成り得るというのです。
「導師」とは仏道の指導者のことです。
つまり菩提心において風貌はまったく関係がないということです。

「たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも、即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり。」 例えわずか七歳の童女であろうとも、菩提心を発こすならば、すなわち「四衆の導師」にも「衆生の慈父」にも成り得るというのです。
「女流」とは女性の意味です。
「四衆」とは、比丘・比丘尼・優婆塞(在家の信士)・優婆夷(信女)の総称です。

「男女(なんにょ)を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」 仏教における男女両性観は、男尊女卑的であるといわれていますが、道元禅師は法の上から、修と証の上からも男女を全く平等に見られています。

「唐の国にも愚かな僧があって、『生々世々(しょうじょうせせ)ながく女人を見ず』と願を立てたことがある。
その願はいったいなんの道理によるものであろうか。
世間の道理によるのか、仏法の道理によるのか、外道の道理によるのか、それとも天魔の理(ことわり)によるのであろうか。
女人になんの咎があるか。男子になんの徳があるか。悪人は男子にもあり、善人は女人にもある。・・・惑いを断ち、理を証するも、また男女によってなんの差別もないのである。」(正法眼蔵・礼拝得随)

「男性なるが故に貴く、女性なるが故に貴からずというのではなく、敬重に値するかどうかは、真に仏道を体得しているかどうかという、唯その一点にある」と禅師は明示されています。
仏道修行のための導師は、「男女等の相にあらず」、つまり仏道修行のための指導者は男女の問題ではないというのです。

菩提心を発こして菩薩道を行じることで、風貌など関係なく、たとえ七歳の女子であっても「四衆の導師」となり、「衆生の慈父」となると示され、さらにこの道理こそ仏道究極の法則だと喝破されているのです。
なんという力量底の人でしょう。
これこそ真実を悟った人の言葉だと私は思うのです。

しかし誰でも持ってはいる菩提心ですが、悲しいかな、人によっては菩提心に恵まれない人もいるのです。
菩提心の邪魔をしているのが「我欲心」です。
この心こそ最も悲しい心です。
しかも残念ながらこの心も「人」であれば誰でも持っているのです。
今回は菩提心の対極にあるこの「我欲心」について考えてみたいと思います。

「我欲心」は英語でエゴイズム(EGOISM)と言います。
その心を持っている人をエゴイストといいます。
利己主義者、我欲者、うぬぼれ者のことです。
真実の見えない人、真実を見ようとしない人、真実を放棄した人がエゴイストになるのです。
その輩の多い社会ほど不幸な社会です。
それは犯罪のほとんどがこのエゴイストによるからです。

自分さえ良ければ他人はどうでもかまわないといった、そのような我欲心の持ち主が自己のみならず他人やまわりの人々まで不幸に陥れるのです。
その我欲心による事件が毎日のように今の日本の社会では起こっています。

人はどうすればここまで残忍非道になれるのかと思わせられたのが去年の8月に起こった愛知女性拉致殺害事件です。
闇サイトで知り合った3人の男が何の関係もない行きずりの31歳の女性を拉致し惨殺放棄した事件です。

彼らは最初から金を奪い殺害することを決めていました。
命だけは助けてと懇願する彼女をハンマーでめった打ちにして殺害したのです。
3人は捕まりましたが未だに謝罪も反省もまったくありません。
彼らの弁護士は裁判では殺害方法で争うつもりだとか言っていましたが、いくら弁護士でも良識を疑います。
私心ですが、彼らに「弁護」が必要とは思えません。

被害者のお母さんが極刑を求めて15万人の署名を裁判所に提出しました。
仏教では悪人こそ救われると説かれていますが、それは心からの懺悔があってのことです。
懺悔のない悪人が救われることは絶対にありません。
それが因果応報という真実です。

止めどなく起こる偽装や詐欺事件、最近での汚染米流通事件にしろ、メラミン混入事件にしろ、みんな「我欲心」から起こった事件です。
何の関係もない実に多くの人たちが甚大な被害を被っています。
特に中国から起こったメラミン事件は全世界に広がりつつあり、その被害の実態は計り知れません。

日本の汚染米被害も日本全国に拡大しています。
特に問題なのは農林水産省による関与の疑念です。
平成15年から現在まで7400トンの事故米を売却していたというのですが、状況からして食用として転売されていたことを知らない筈はないのです。
行政ぐるみの犯罪と疑られても仕方ありません。
事実が解明され責任がとられない限り国民の怒りは治まりません。

日本はよく議員内閣制ではなく官僚内閣制だといわれています。
その意味は日本が官僚による独裁国家だということです。
高齢者医療問題や年金問題、道路特定財源問題、先にあげた農水省指導による汚染米問題等々、それらの原因のすべては官僚独裁行政の「我欲心」から生まれたものです。

官僚独裁者達は自分たちの利権の棲家として全国に4696もの特別法人をつくり、2万6千人以上もの天下りを送り、年間12兆6千億円以上もの税金が使われているという。
民間のある調査によるとこの12兆6千億円も無駄をなくせば3兆円で済むとか。
これらの情報は毎日のようにテレビで、みのもんた氏が言っていることですから、みなさんもよく御存知でしょう。

もちろん官僚の全てが悪いわけではありません。
戦後の日本の発展は官僚なしには実現できなかったことも事実でしょう。
しかし、どんなに優秀な組織も自浄性がないと病原菌が蔓延るのです。
現代の官僚組織はまさに無秩序に増殖するガン細胞によって健康の部分までも癌化させられてしまったのです。
その結果自らの身の破滅を招くことは自明の理です。
国の借金は800兆円を超えると言われますが、まさにその結果の表れの一つだと思います。

もう猶予はありません。
日本が救われるには官僚による独裁から解放され以外にはないのです。
行政改革をいくら叫んでみても霞ヶ関の官僚伏魔殿が有る限り真の民主主義行政は実現されないでしょう。
それには中央官僚が抱え込んでいる膨大な利権を地方に分散するしかないのです。
そのために考えられているのが道州制だといわれています。

それに応えるのが政治家です。
政治家に一番求められるのが菩提心です。我欲心があったらダメです。
十分見極めて政治家を選ぶしかありません。
その政治家を選ぶ選挙がまもなくやってきます。

合掌

曹洞宗正木山西光寺