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法話

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法話--平成19年3月--

--「無字」の公案 --

お陰様で、この3月で当山のホームページもまる2年を迎えることになりました。
今後ともよろしくお願い致します。

その2周年を記念して(大げさですね)今回は「無字」の公案をとり上げました。
私事ですが、十代のころ品川東照寺の故伴鉄牛老師に御指導を受けましたが、その中でも最も印象に残っている思い出深い公案です。

趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」

この「無字」の公案こそ公案を代表したものと言えるでしょう。
趙州和尚とは中国禅界での大物中の大物です。
南泉禅師の弟子で120歳まで生きたという傑僧古仏です。

その趙州に、ある時、一僧が、「狗子(犬)に仏性が有るのか無いのか」と問います。
趙州はにべもなく、「無」と答えました。
「一切衆生悉有仏性」(一切のものには仏の性質がある)が常識であるとされている中での質問です。

その分かり切ったところをあえてその僧は問いたのです。
多分「有」という答を期待したのかもしれません。
ところが趙州和尚は意外にも、只「無」と言い放ったのです。
犬にも仏性が有る筈なのに何故趙州は「無」と答えたのでしょうか。

その「無」とは何なのか、何を意味しているのか、というのがこの公案のねらいです。
この公案は「無門関」の第一則「趙州狗子」です。
祖録「無門関」は中国杭州の無門慧開禅師によって編纂された「公案集」です。
その無門自身趙州無字の公案によって大悟し印可を得たといわれています。

禅宗、特に看話禅では修行者の第一関門としてまず課せられるのがこの公案です。
無門慧開禅師がこの公案を無門関四十八則の初めに置かれた意味は、公案は全てこの無字に始まって無字に終わるといった意味合いを含めたものだからでしょう。
以下はその無門禅師の言葉です。

「禅の実践的探究には、まず禅の祖師方によって設けられた関門を透過せねばならない。
絶妙の悟りに至るには普通の心意識情といわれるものを完全に滅してしまわなければならない。
もしそのような関門を透った体験もなく、普通の意識を滅した経験もなしに、禅を「ああだこうだ」と評判するとすれば、その人たちはいわば藪や草むらに住み着く幽霊のようなものである。

さて言ってみるがよい。この関門とはいったいどんなものであろうか。
ほかでもない本則でいわれた趙州の「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称するのである。

もし人あってこの関門を透ることができれば、その人は親しく趙州におめにかかることができるばかりでなく、達磨をはじめとする歴代の祖師たちと、手と手をとって歩き、たがいの眉毛が結びあわさって祖師たちの見たその眼ですべてを見ることができるし、同じ耳ですべてを聞くことができる。

それこそまことにすばらしく快いことではないか。
さあみなのもの、この関門を透過しようではないか。
それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。
日夜この問題をとって工夫してみるがよい。

しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。
一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、ちょうど熱い鉄丸を呑み込んでしまって吐くこともできず、呑み込むこともできないようなもので、このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落としてしまうがよい。

そのように長く持続して時機が熟すると、自然に「外と内」(意識と対象)との隔たりがとれ、完全に合一の状態に入る。
その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、自分自身にははっきりしているが、他人にはどのようにも語れない。

突如そのような別体験が働きだしてくると、それこそ驚天動地の働きで、ちょうど蜀の劉備の臣で天下に豪勇を轟かした関羽からその得意の大刀を奪いとっておのれの武器としたごとくに、「無」の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し、達磨に逢うては達磨を斬って捨てるのであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる。

それでは、どのようにこの「無」の一字に全霊を集中させたものであろうか。
それこそ君たちの平生の精神力をつくしてこの「無」に集中せねばならない。
そうして間断なく休止することがなければ、君たちの心中に仏法の灯り(悟りの光)がパッと一時につくといった境地になることであろう。」

このように無門禅師は提唱されています。
この「無」の「門」を打開してこそ涅槃妙心の世界が開けるのです。
そしてこの第一関門を透ればあとの公案はみなその応用問題といってもよいでしょう。
それはこの公案をいい加減に理解しても後々の公案は全く透らないということにもなるのです。
ですから、懇切な指導者程その吟味検証に厳しい判断をされるのです。

さて、本題に戻りましょう。
犬にも仏性があることはわかっているのです。
それなのに趙州が「無」と言ったのは何故でしょう。

頌(じゅ)に曰(いわく)狗子仏性(くしぶっしょう) 全提正令(ぜんていしょうれい)纔渉有無(わずかにうむにわたれば) 喪身失命(そうしんしつみょうせん)

〔犬! 仏性!仏祖の全ての命題がズバット提出されたのだ。少しでも有無相対の 考えに堕すればただちに息絶えるだろう。〕

この「無」とは、有るとか無いとかの「無」ではないのです。
虚無の「無」でもありません。強いて言えば絶対の無です。
それは如何せん言葉では説明が出来ないのです。

ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。
それは本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。
それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。

趙州はこの無の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を明瞭に吐露されたのです。
史上あまたの祖師方をはじめ、無門自身も、白隠も皆この無字によって大死一番大活現成されたのです。
まさにこの無字が一大経蔵であり、大宇宙であるのです。

どうですか、「無」とは何か追求してみては。
あなたが宇宙、宇宙があなた、あなたが仏、仏があなたになれる最も合理的な方法ですよ。

まず「無」の字に囚われてはだめです。
「む」でもいいし、「ム」でいいし、「Mu」でもいいのです。
更に言えば、「む」でもないし「ム」でもないし「Mu」でもないのです。
只全身全霊の「無―!」です。
そこには「無」以外何も無い世界が出現するのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺