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法話

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法話--平成21年11月--

こころ(17) --三心(大心)--

「いわゆる大心とは、大山のような高く大きな心、大海のような広く深い心をもち、一方に偏った考えをせず、ひとつの思いに固執することのない、おおらかな心を言います。」(典座教訓)

今回は三心の内のさいごの心「大心」がテーマです。
それは今までの「喜心」「老心」を併せた大覚の心といったらよいでしょう。
偏りのない、固執のない、おおらかな心・・・「大心」

それは道元禅師が宋に渡り二人の典座和尚から学んだ融通無碍なる心であったのです。
天童山如浄禅師の下での猛修行の結果「身心脱落」の大悟徹底されたその基になった心であり、同時にそれはすべての人にとっての修行の心であり悟りの心であるのです。

一人目の典座和尚との出逢いは寧波(にんぽう)の港に椎茸を買いに来た阿育王寺の老典座でした。その時の様子は前々回ご紹介しました。
彼からは文字とは何か修行とは何かを学びました。
禅師は「自分がいささか文字を知って仏道修行の何たるかを理解できたのは「乃(すなわ)ち彼の典座の大恩なり」(典座教訓)と述懐されています。

二人目の典座和尚との出逢いは天童山での修行中のことでした。
彼からは「他は是れ吾に非ず(他人は自分ではない)」「更にいずれの時をか待たん(今やらなければいつやるのか)」というまさに修行の原点を学ばれたのです。
そのときの様子がつぶさに「教訓」に述べられていますので紹介しましょう。

「私がかつて宋の天童山景徳寺で修行していた頃のことです。
地元寧波出身の用(ゆう)という名の老僧が典座職に就いていました。
私が昼食をすませ、東側の廊下を通って超然齋(ちょうねんさい)という建物に向かう途中、この老僧が仏殿前の庭で茸を干しているところに出会いました。

老僧は竹の杖を突き、頭に笠さえかぶっていない。強い日差しが照りつけ、庭の敷瓦は焼けつくような熱さです。
老僧はしたたり落ちる汗をぬぐおうともせず、一心にきのこ干しの仕事をしている。
いかにも辛そうに見えます。背中は曲がり、長い眉は真っ白です。

私は老典座に近づいて、お年を尋ねました。
典座は『六十八です』と答えました。
そこで、私が『どうして、見習い僧か下働きの人を使わないのですか』と言ったところ、老僧は『他人にやってもらったら、わたしがやったことにはならないではないですか』と言いました。

私は、『たしかにご老僧のおっしゃるとおりです。しかし、こんなに日差しの強い時にどうしてそこまでなさるのですか』と尋ねました。
すると、老僧はこう答えたのです。

『いまやらなければ、いつやるというのですか』と。
私はなにも言えなくなりました。
廊下を歩きながら、典座という職のたいせつさを思い知らされた次第です。」
(典座教訓・菅原昭英口語訳より)

真の仏法を求めて命がけで宋に渡った若き道元禅師にとって二人の典座和尚から学んだものはまさに修行の原点、否仏道そのものであったのです。
やがて禅師は悟りによって二人の老典座の教えが本物であったことを認識され、いよいよ典座老宗師への感謝の念を深められたのです。

「典座」は禅師にとってまさに大恩の「人」であり「職」であったのです。
その想いから「典座教訓」が著されたと言っても過言ではないでしょう。
そこでさらに肝腎なことは、典座という職務が何も特別だということではないということです。

「典座」は一つの例であって、どんな役職であれそれ自体かけがえのない修行の実践なのです。
また仕事の大小に拘わらず同じ〝大事〟なものであるという、つまりどんな仕事であれそれ自体が修行であると同時に悟りであるという、禅者はそこに「修証一如」の大宗乗があることを見逃してはなりません。
この認識が極めて大事です。

「そもそも、修と証とが別のことであると思っているのは、とりもなおさず外道の考え方である。仏教では、修と証とはまったくおなじものである。
いうまでも証のうえの修なのであるから、初心の学道がそのままもとから証のすべてである。」(正法眼蔵・弁道話)

「また、大宋国においてまのあたりに見たところによれば、諸方の禅院には、すべて坐禅堂があって、五百六百から千人二千人におよぶ僧を収容して、日夜坐禅をすすめていた。その主席には、仏の心印を伝える師匠があって、つねに仏法の大意をくわしく聞くのであるから、修と証とが別のものではないことがよく理解されていた。」(正法眼蔵・弁道話)

言うまでもなく、「修」は修行のことであり、「証」は悟りのことです。
「初心の学道がそのままもとから証のすべてである」とは、ひたすら修行することそれ自体がそのまま悟りの姿であるということです。
だから「仏法の大意は修と証とが別のものではないこと」になるのです。

入宋当初の若き道元禅師にとって、修行とは坐禅することであり、古則公案に対峙することであり、それ以外のことは修行とは関係のないものだったのです。
寧波の港で出逢った典座に対して言った禅師の言葉がそれを如実に表しています。

「座、尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人の話頭を看せずして、煩わしく典座に充てられて、只管に作務す。甚んの好事か有る。」 (そのようなご高齢の身で、ひたすら坐禅修行に専念されたり、古人の公案などを勉強されておられればよろしいのに、どうしてわざわざ面倒な典座職に就かれ、炊事のお仕事に精を出されておられるのですか。それでなにかよいことがありますか。)

それに対して典座が大笑して言いました。
「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざること在り。」 (外国から来られた好青年よ、まだ修行というものがおわかりでないようですな。
文字というものをご存知ない。)

「山僧便ち休す。」(自分は何も言えなくなった。)「潜かに此の職の機要たることを覚えゆ。」(典座という職務の大事さを思い知らされた。)

禅師にとってこの時の心の衝撃は相当のものであったことが伺われます。
「修証一如」というまさに正伝の仏法に出逢った瞬間でもあったのです。
曹洞宗の経本「修証義」はまさにこの教義をタイトルとして編纂されたものなのです。

大覚の心・・・大心 大山のような心と、大海のような寛容な心と、一切の偏見の無いおおらかな心を持つことなどなかなか容易にできることではありません。
確かにわれわれ小人は些細なことにこだわり自分自身を見失い失敗を繰り返している存在なのかもしれません。

だからこそ「修証一如」の精神を信じ実践すべきなのです。
一般的には「修」を「努力」に例えれば、「証」は「成果」ということになります。
努力無くして成果は絶対にありませんが、とかく成果にこだわるのが凡夫です。
凡夫の不幸は成果にこだわり囚われることから起こるのです。

成果にこだわらない心こそ大山のような心であり、大海のような寛容な心であり、一切の偏見の無いおおらかな心なのです。
修証一如から悟った境地・・・それが「大心」です。

合掌

付録

今から七百七十年も前の鎌倉時代に、調理にかけがえのない価値を認めその中に真の仏道修行のあり方を示された道元禅師の見識には改めて驚歎いたします。
少し前までは「男子厨房に入るべからず」などと言っていたのが同じ国民だったことが信じられません。

現在では国内外を問わず、この「典座教訓」に出逢い料理人としてのアイデンティーと誇りを持って「三心」を文字通り教訓に掲げたりしている人も多く見られるとも言われています。
まさに現代社会に「典座教訓」の精神が生きているのです。
その心得の幾つかご紹介しておきましょう。

「およそ食材や調理器具などを取り揃える際には、ありきたりな見方をしてはいけないし、ありきたりの心で考えてはいけません。一本の草からお釈迦さまの大伽藍を建て、一粒の砂ほどの場所から仏道を説く気構えを持つことがたいせつです。」

「寺の常備品は、人の目玉と同じくらい特別たいせつにしなさい。ですから、お茶や野菜などを、この上なく高貴なお方に差し上げるお食事用のように丁重に扱わなければなりません。生のままでも煮炊きしたものでも、同じ心がけで臨むことです。」

「お米をとぎ、お惣菜を準備するとき、典座は自分の手で直接作業をし、よく気を配り、一瞬たりとも気をゆるめず真剣に取り組み、あることには注意をするが別のことには注意を怠るというようなことがあってはなりません。」

「功徳を積むためには、大海のほんの一滴ともいうべき些細なことでも、他人まかせにはできません。また善根を積むためには、大山がひとつひとつの塵の積み重ねであるように、こつこつと努力を積み重ねる心がけが必要です。」

「苦い、酸っぱい、甘い、辛い、塩辛い、淡いという六味のバランスが取れ、あっさりして軟らかい、きれいで衛生的である、正しい調理法に従って丁寧につくられているという三徳が備わっていなければ、典座が修行僧たちに食事を提供したことにならない。」

「お米を洗う際には砂が混じっていないかどうか、砂を捨てる際にはお米が混じっていないかどうか、よく確かめ。細かいところまでけっしておろそかにせず、注意を払って、よく見ることです。そうすれば、おのずから六味が整い、三徳が満たされることでしょう。」

「とぎ水といっしょにお米を流してしまうことがないように、昔から濾(こ)し袋が用意してあるのです。
つぎに、お粥をつくるためにお米と水の分量を量ります。鍋に入れ終わったら、ネズミが入り込んだり、だれか外部者が中をのぞいたりすることがないように気を付けて、特別たいせつにしておかなければなりません。」

「翌朝のお粥のおかずを準備したら、次にさきほどの昼食のご飯のお櫃やお吸い物の桶、調理器具類を取りまとめ、真心をこめて丁寧に洗い清め、高い所に置くべき物は高い所へ、低い所へ置くべき物は低い所へ、きちんと片づけておきます。」

「高い所では高い所なりに、低い所では低い所なりにそれぞれ安定するように整理整頓するのです。菜箸やしゃもじなど、道具類いっさいを同じく慎重に扱い、細心に点検して、そっと取りそっと置くようにします。」

「その後で、翌日の昼食の支度をします。まず、お米の中に虫が入っていないか確かめ、ごみや異物をていねいに取り除きます。お米や野菜などをきれいに選り分けるあいだ、典座の下働きをする見習い僧はかまどの守り神にお経を唱え、礼拝します。」

「それから、おかずとお吸い物の材料を選び、取り揃えます。庫裏の役職者から受け取った材料について、量が多いとか少ないとか、粗末とか上等とか、不平を言わずに、ひたすら食材準備に専念します。」

「材料が多すぎるとか少なすぎるとかの不満を表情に表したり、口に出して言うことはげんに慎まねばなりません。典座たるもの、一日中、食材と調理器具に心を傾注し、物と心が通い合い一体となって仏道修行に励まねばなりません。」

「お米を水に漬けておくあいだ、典座は流しの辺りから離れることなく、お米をといだら、鍋に入れて火を焚き、ご飯をつくります。 昔の人は言いました、『ご飯を炊くときは鍋を自分の頭と思い、お米をとぐときは水を命と思え』と。」

「使う食材のよしあしを気にして、気持ちが動くようではいけません。物によって気分が変わり、相手の人によって言葉や態度を変えるようでは、仏道修行に取り組む者とは言えません。典座は、ひたすら仏道に専念し、誠心誠意自分の職務を果たせば、先輩たちが成し遂げた立派な仕事にも劣らぬ、心の行き届いた仕事ができるでしょう。」

以上、このように道元禅師の典座の意義と心得についてさまざまな教示を紹介しましたが、参考になるものも多いと思います。

合掌

曹洞宗正木山西光寺