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法話

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法話--平成21年12月--

こころ(18) --「不是心仏(ふぜしんぶつ)」--

無門関第二十七則 「不是心仏」(ふぜしんぶつ)
本則
南泉和尚、因に僧問うて云く、還(かえ)って人の与(ため)に説かざる底の法有りや。
泉云く、有り。
僧云く、如何なるか是れ人の与に説かざる底の法。
泉云く、不是心(ふぜしん)、不是仏(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)。

南泉和尚にある僧が尋ねました。
「いままでに説かれたことのない法というものがありますか」 すると南泉和尚は、「ある」と答えました。
そこで僧が、「では、説かれたことのない法とはどういうものですか」と尋ねると、南泉和尚は、「心でなく、仏でなく、物でもないもの」と答えました。

お釈迦さまから南泉和尚まで、直系の歴代が三十七代、お釈迦さまの説法だけでも三百余会、結集され創作された大乗教典をはじめ律や論部など合わせた大蔵経の巻数は五千四十余巻ともいわれます。

このなかに仏教の教義や仏性論すなわち仏法のすべては説かれ尽くされていると考えるのが常識でしょう。
ところが南泉和尚は、「今までに説かれたことの無い"法"がある」と云うのです。

そしてそれは心でもない。仏でもない。物でもないというのです。
それは一体何でしょう。
今回も心と仏の実体を掴むための公案です。

さて、この公案を解くためには二つのポイントがあると考えます。
その一つ目が「今まで一度も説かれたことがない法」の真意です。
まずこれをどう解釈するかです。
「説かれたことがない」という意味は、つまり「説くことができなかった」ということです。

これまでにも拙僧がクドクド講釈してきたように、"説明"での理解は想像の域を出ません。
リンゴを食べたことのない人に何千何万回の"説明"をしたところでその本当の味を理解させることは絶対に不可能です。

この理屈と同じで、「真如」という"リンゴの味"は何千何万巻のお経をもって説かれたとしてもそれは所詮理論上の"想像の味"にすぎないのです。
「真如」という"リンゴの味"を真に味わうにはやはり自ら本物のリンゴを食べるしかないのです。

つまり「一度も説かれたことがなかった」とは、「説かれることができなかった」という意味です。
「体験」をいくら"説いても"「理解されない」という意味から「説かれない」という表現になっているのです。
この認識が極めて重要であり、この点が分からなければこの公案は透過できないでしょう。

次のポイントは「心でない。仏でない。物でもない」という真意です。
これまでの「即心即仏」と「非心非仏」と「非風非幡」の公案を振り返ってみてください。
その中にも答えは有ります。
これらの公案が分かればもう何の説明も要りません。

「心」の実体は何でしたか。「仏」の実体は何でしたか。「物」の実体は何でしたか。
そしてそれは"説明"できるものですか・・・最高のヒントですね。

南泉禅師の言われた「心ではない」とはつまり"説明された"「心」ではないということです。
「仏ではない」とは"説明された"「仏」ではないということであり、「物」も「説明された物」ではないということです。

「心」を言葉で説明した途端にそれは「観念上の心」になってしまうのです。
仏も物も森羅万象もその実体はそれを言葉に代えた瞬間に「観念」になってしまうのです。観念こそ分別妄想の実体なのですから。

「ただし、観念は観念程度の価値はある。すなわち本物に導きく程度の価値はある。
すなわち本物に導く宣伝ビラ程度の役割をする意味において価値はたしかにあるのだが、この観念をつかまえてもって仏法の真の事実、真の我と思ったら絶対に違う。」 (原田祖岳老師提唱より)

そもそも公案とは観念から脱却して仏の実体を悟るための手段なのです。
実体を知るには「体験」しかないのです。体験があれば何の説明も要りません。
一切の観念を捨てさせ真如を体験させるためにあるのが公案です。

八万四千の法門も"説明"である以上それはすべて"観念"の法門にすぎません。
何百何千の教典も言葉で説かれている以上それはすべて机上の観念仏法でしかないのです。
かけがえのない尊い教典も真如を"体験"してこそその真髄を理解できるというものです。

「観念仏法の講釈の大部分は嘘を教えることだ。
何としても体験でなければ我がものにはならない。ではどうすればよいか。
正師の指導の下に、一切の分別妄想を徹底的に殺し尽くせばよいのだ。」(原田祖岳老師提唱より)

南泉禅師が示されたこの公案の主旨はまさに観念仏法からの脱却です。
そのためには、「心」も「仏」も「物」もそれ自体から"一切の分別妄想を徹底的に殺し尽くせば"よいのです。
そこに豁然と真如の姿、すなわち「あるがまま」の世界が現成するのです。

南泉禅師が示された「心でもない。仏でもない。物でもない」の一句は、一切の観念を徹底的に排除するための口宣だったのです。
釈尊さえも五十年のご説法の終わりに「我一字不説」と示されました。
御自身のこれまでのすべての説法をしても真如を"説く"ことができなかったという、"説明"では絶対に理解できない世界・・・それが「真如」なのです。

ですから"体験"するしかないのです。
そしてその入り口が坐禅なのです。
熱心な仏教信者も大勢いますが、いくら解説書を読んで学んでみても所詮それは想像での真如に過ぎません。

仏教は大安楽の世界に入るための教えです。
しかし大安楽の世界が想像で終わってしまってはまさに絵に描いた餅、イヤ絵に描いた極楽にすぎません。
本物の極楽に安住するには本物を体験するしかないのです。

今年も12月8日の成道会(じょうどうえ)がやってまいりました。
釈尊のご遺徳を称え多くの寺院で坐禅会や接心が修行されたことでしょう。
当山でも月一の坐禅会を行っておりますが、なかなか続けられる人は多くありません。

数回坐っただけで多分「こんなものか」と見限ってしまうのでしょう。
2~3回の経験ですぐ何かが掴めるとか自分が変えられるとか、そのような安易なものではありません。
また、ときどき体験目的などと言って見える方がいますが正直感心しません。
仏教を真剣に学ぶ決意の人こそ参禅すべきなのです。

なぜなら坐禅こそが仏教の正門だからです。
「大師釈尊は、あきらかに仏道を悟るすばらしい方法を正伝したもうたのであり、また、三世の如来たちは、いずれもみな坐禅によって仏道を悟ったのである。
だからして、これを仏法の正道であるとするのである。」(正法眼蔵・弁道話)

坐禅は仏道を"生活する"ことなのです。
食事をするのも仕事をするのも社交も、入浴もトイレも寝るのも、生活のすべてを"仏道"に従って生きるその基本が坐禅なのです。
ですから坐禅こそ仏道の正門なのです。

言うまでもなく仏道の目的は「大安楽」という幸福を得るためのものです。
「坐禅とは、禅定を修することではない。それは大安楽の法門であり、絶対の修行なのである。」(正法眼蔵・坐禅儀)

合掌

曹洞宗正木山西光寺