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法話

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法話--平成20年1月--

因縁(その10)-- 縁は選択できる --

三朝祈四海五福
一切群生明晃晃

新年おめでとうございます。
年頭にあたり、正法興隆、国土安穏、万邦和楽、諸縁吉祥と皆様のご多幸を祈念致します。
本年もこの「法話」をどうぞよろしくお願い致します。

「因果」つまり原因と結果の間にあるのが「縁」です。
原因は縁によって結果となるという、因果の道理についてはこれまで幾度も述べてきましたが、今回はこの「縁」について、『「縁」は選べる』という持論を紹介したいと思います。

まず縁とはどのようなものでしょうか。
一言で言えば、万物の潤滑油のようなものです。
諸行無常といって万物は一瞬一瞬変化していますがその「変化」の動向や実態はその「縁」によるのです。
変化は全て「縁」次第という、いわば「変化」の潤滑油に当たるのが"縁"といったらよいでしょう。

そのことを念頭においてまずその「変化」について考えてみます。
「変化」とは何か。「変化」はどのようにして起こるのかを考えてみます。

変化とは万物の一つ一つに具わったエネルギーの移動によるものです。
以前「もの」には全てそのものに具わったエネルギーがあるということを述べましたが、「ある」というより、その「もの」自体がエネルギーと言った方がよいかもしれません。つまり存在=エネルギーということです。

例えば、変化として分かり易いのが「老化」です。
人は時間と共に老化しますが、老化という「変化」を考えた時に、それは新陳代謝によるエネルギーの損失による変化です。
そしてやがて全てのエネルギーが尽きた時にその「存在」も無くなります。
存在=エネルギーですから。それがすなわち「死」です。

なるほど、人や生物の場合はそれでなんとなくわかりますが、では無生物の場合の変化はどうでしょう。
一つの岩を例に考えてみましょう。岩は無生物ですから当然新陳代謝をしてはいません。

しかし、存在=エネルギーという理論(持論)からすると当然岩にもエネルギーがあることになりますが。
そうです。その岩もれっきとしたエネルギーの塊(かたまり)なのです。

岩がエネルギーの塊だって?一体なんのことでしょうか。
「風化」ということを我々は知っています。
風化はれっきとした「変化」ですが、この場合の変化は岩が外から受けるエネルギーによるものだと考えるのが常識です。
でも持論から言いますと、それは岩それ自体の退化エネルギーによるものなのです。

つまり、「生育」も「老化」も「退化」も「風化」もみんなそれ自体のエネルギーによる「変化」なのです。
すなわちエネルギーの移動により存在が形を変えるのです。これが「変化」です。
生物、無生物を問わず、存在する「もの」にはすべてエネルギーがあり、そのエネルギーの移動が変化となって、その流れは永遠に止むことはないのです。
これがすなわち諸行無常の姿です。

何年、何十年経っても変化していないように見える岩でも百年経てば目に見える変化が現れてきます。
百年経って変化しているということは、一年一年で変化しているということです。
一年一年で変化しているということは、一日一日で変化しているということです。
一日一日で変化しているということは、一分一分で変化しているということです。
一分一分で変化しているということは、一秒一秒で変化しているということです。
つまり、刹那ごとに変化しているのです。
生物、無生物を問わず、万物はそれ自体瞬間瞬間に変化し続けているのです。

では次にその「変化」のメカニズムについて考えてみましょう。
「変化」にはルールがあるのです。すべての「変化」はそのルールに則っているのです。
そのルールこそ「因果の法則」であり、その素因が"縁"という潤滑油なのです。

では「縁」とはどんなものでしょう。
一つの「もの」が時間の流れに流されている状態を水の流れに例えてみます。
水は万有引力の法則に従ってただただ低い方へ低い方へと流れていきます。
その流れは一定ではありません。
速度を変え、速くなったり遅くなったり、急カーブしたりしながら流れて行きます。
それは流れの中にさまざまな障害があるからです。

流れにとって自分の都合で流れの速さや方向を変えることはできません。
都合の良い石もあれば悪い石もあるでしょう。
イヤな石にぶつかったり岩に乗り上げたり、土を削ったり、澄んだり濁ったりしながら流れていくのです。
その流れの中にある障害のすべては環境である以上必然のものです。必然ですからそれは"縁"であり受け止めるしかないのです。

つまり"縁"とは"必然"であり避けられないものだということがわかります。
これと同じで、万物の一つ一つにはそれぞれの流れがあってその環境のすべてが"縁"であるのです。

人の人生もこれとまったく同じだと考えられます。
人それぞれにはそれぞれの環境という必然があるのです。
その環境のすべてが「縁」であると考えたときに、その縁といかに向き合っていくかが人生にとって大切なのです。

今私は、縁は必然であり、その縁と如何に向き合っていくかが問題だということを申しましたが、実は人の場合「縁は選択できる」のです。
これこそ人に与えられた「特権」なのです。

出会う「縁」は必然であり、仕方のないものとしましょう。
しかし、「縁」が選択できるというのならそれをしっかり認識してそれを人生に活かすべきなのです。

人の出会いの縁からその「選択」について考えてみましょう。
友人を選ぶということは一つの選択ですが、良い友人を持つのと悪い友人を持つのとでは人生にとってその影響は実に大きいものがあります。

さらにそれ以上に人生にとって重大な縁と言えば結婚でしょう。
結婚は出会いの中でも最大級の「選択」であり、その決断は人生を左右するものと言っても過言ではありません。

そこで、極最近ある若い女性から直接聞いた話をご紹介します。
数年前のこと、縁あってある男性と約一年間の交際を経て結婚することになったそうです。
お相手は家柄も良く社会的経済的にもまったく申し分のない青年だったそうです。
結納も済み、式場を決めようとしていた矢先のことだったそうです。

その彼からなぜか突然彼の家のお墓参りに誘われたそうです。
ご先祖様へのご報告として当然のことだと思いながら、そのお墓に案内されたそうです。
ところがそこには彼女にとって大変な"結果"が待っていたのです。

そのお墓に行って唖然としたというのです。
そこにはなんと卒塔婆でもない板切れが数本立っているだけでそれ以外何も無かったというのです。
「ええ・・・! これがお墓?」「墓石も何も無いのに何を拝むの?」 「この家の人達は一体先祖やお墓のことをどう考えているのだろう?」 「こんなお墓に連れてきた彼のその神経が理解できない・・・・・」しばし呆然。

この瞬間から、彼との結婚への想いは急激に冷めてしまったそうです。
結局破談となり当然その理由を聞かれたそうですが、お相手方にその本当の理由はすぐには言えなかったそうです。
「突然決まったあのお墓参り・・・あれはきっと私のご先祖様、特にお爺ちゃんの示唆によるものではなかったかと今にして思われます。」と彼女はいみじくも語っていました。

出会いという「縁」から結婚という「選択」があるわけですが、彼女の場合実にドラスティックな"選択"があったわけです。
それはまさにご先祖さまからの"ご神託"であったとも捉えることもできますが、私には何よりも彼女にご先祖様に対しての報恩感謝と畏敬の「感性」があったからこその結果だったと思えるのです。

私は彼女のそんな感性に感動を受けましたが、その感性こそご先祖様から受け継がれた「因縁」によるものなのです。
優れた感性が正しい縁の選択をするのです。
今の時代に最も求められているのはそんな「感性」ではないでしょうか。

「縁は選択できる」ということの一例を述べましたが、これは特段に考えることではありません。
誰でも毎日の当り前の生活の中に有るちょっとした「選択」をちょっとだけ真剣に考えてくれればよいのです。

例えば、朝早く起きるか、遅く起きるかということで検証してみましょう。
例えば早く起きることを選択すれば、余裕ができます。
余裕ができればしっかりした食事がとれます。
家族の会話ができます。
学校や会社に遅れる心配もありません。
ストレスもたまりません。

他方、ぎりぎりまで寝ていることを選択すれば、あわてて起きなければなりません。
結果、満足に食事もとれません。
家族の会話もできません。
あわてて事故にぶつかる可能性も高くなります。
すべてに余裕がなくなればストレスも重なります。
双方の結果は歴然です。

朝起きなければならないという事態は必然の「縁」ですが、起き方の選択の違いでその結果は大きく違ってきます。
これが習慣となればやがて大きな結果となって現れてくるでしょう。

このように、われわれの毎日は選択の連続なのです。
良い選択は幸福に向かいます。
悪い選択は不幸に向かいます。
犯罪を犯す人は間違いなく「選択」を誤ってしまうのです。
これこそ因果の法則です。

毎日の生活は縁の選択の連続だとしたら、人生は縁の選択で決まってしまいます。
だとしたら選択の判断を間違えない方法があったら良いですね。
実はあるのです。
次回はその方法について考えてみましょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺