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法話

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法話--令和3年11月--

太平洋戦争の真実 その18 ―キスカの奇跡 ―

今回は、米軍をして「パーフェクトゲーム」と言わしめたその撤退作戦を紹介します。
壮絶な玉砕で有名なアッツ島の隣のキスカ島に取り残された日本軍将兵5,183人の「奇跡の撤退」と言われる物語です。

1943年、アメリカ軍は日本軍の占領下にあったアッツ、キスカの2島(アリューシャン列島最西端)を奪回するため、アッツ島へ上陸を開始します。

日本軍は、この島の戦略的価値が低いとの判断から、十分な防御を備えていませんでした。
11,000のアメリカ軍相手に日本軍は約2,400人という圧倒的な兵力差でした。

樋口季一郎中将は、アッツ、キスカからは早急に撤退させるか、そうでなければ強力な増援部隊を送るよう大本営に強く働きかけましたが、日本軍は燃料不足などの理由からアッツ島の放棄、キスカ島からの撤退を発令します。

アッツ島守備隊2,400人は上陸したアメリカ軍と17日間に及ぶ激しい戦闘の末、昭和18年5月29日に玉砕。アメリカ軍の戦死はわずか約600人でした。
太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いでした。

そして、アッツ島陥落により、隣のキスカ島にいる陸海軍あわせて5,183人の守備隊は孤立し、待つのは死か降伏かという状態に陥ります。
海軍への不条理さに対する怒り、そしてそれを撥ね返せない陸軍参謀本部の不甲斐なさに、樋口は号泣したといいます。

壮絶な玉砕を遂げたアッツ島、問題はその隣島キスカに取り残された陸海軍将兵5,183名の救出でした。
アリューシャン方面の放棄を決定した日本軍は、キスカ島からの撤退に重点を置き、作戦を開始します。

指揮を執ったのは、海軍司令官・木村昌福少将でした。
「帰ろう、帰ればまた来れるから」という言葉に象徴されるように、穏やかでハートナイスな人柄でした。将たる器とユーモアをそなえ、厚く信頼された男でした。

第一期作戦では、潜水艦輸送により、傷病兵約800人が後送され、また守備隊への弾薬や糧食の輸送に成功しました。

しかし、レーダーを始めとするアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、この作戦により潜水艦は次々に損傷し3隻を喪失してしまいます。
潜水艦による撤退作戦が不調に終わったため、第二期作戦が考案されました。

アッツ島陥落で周りの戦域をアメリカ軍に握られ、孤立無援の状態となっているキスカ島からの撤退を成功させるには、上空から空襲を受けることのない視界ゼロに近い濃霧が発生しているという天候条件が必須だと実行部隊の木村昌福少将は考えました。

7月29日に決行された第二期作戦では、兵士の収容時間は1時間が限界との判断から、できるだけ身軽に行動できるよう、兵器の廃棄を木村少将から求められた樋口中将は独断でこれを承認し、陸軍では神聖視されている菊花紋章の刻まれた小銃を海に放棄するよう兵員に命じました。

これにより、濃霧の中、約5,183名の守備隊員をわずか55分という短時間で収容することに成功し、キスカ島からの奇跡的な無血撤退が成し遂げられたのです。 以下その詳細です。

キスカ島の守備隊の撤退作戦は、運を天に任せて大勝負をする「乾坤一擲」(けんこんいってき)から、「ケ」号作戦と名付けられました。
最初は、潜水艦15隻による物資の補給と傷病兵の輸送でしたが、レーダーなどを使ったアメリカ軍の警戒が厳重で、成果の割には大きく失敗していました。

このため、この地方特有の濃霧に紛れて高速で駆逐艦等がキスカ湾に突入し、素早く守備隊を収容して離脱するという計画が立てられました。
当時のアメリカ軍は、霧の中で攻撃できる爆撃機を持っていなかったからです。

そして、就役したばかりの駆逐艦「島風」が作戦に加わります。
島風は、当時の日本としては最新鋭の「二二号電探」と「三式超短波受信機(逆探)」を備えていました。

現在のレーダーのような性能はありませんでしたが、電波を発射して敵の艦船の位置を探ったり、敵のレーダー電波を受信することで近くにいるかどうかの判断ができました。

このため、作戦の成否を決める最大の要素は、「視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生すること」でした。

霧予報を担当したのは、巡洋艦「那智」に乗り組んでいた気象士官の竹永一雄少尉でした。竹永は東京にあった海軍水路部や中央気象台でアリューシャン海域の霧についての資料を調査、分析していました。

そして、次のような海霧予報則をまとめました。
北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカが霧になる。確率は9割以上である。

木村少将は、濃霧が出ている時しか勝負の時はないとして、濃霧の発生をじっと待っていました。
そして7月27日、北千島では物凄い濃霧となりました。
そして、キスカ島への突入は29日と決断されました。

そして、キスカ島一体が濃霧につつまれた29日13時40分、キスカ島の鳴神湾に投錨した艦隊に、待ち構えていた守備隊員約5千名が約1時間で乗り移り、ただちに全速で離脱に成功したのです。

アメリカ軍は、日本軍の撤退にまったく気付かず、その後、無人のキスカ島を艦船による艦砲射撃や飛行機による猛爆撃をし、8月15日に3万4000名の兵力で上陸作戦を行いました。
その結果、なんと同士討ちで約100名が犠牲になったというのです。

日本軍の軍医が撤退前に、上陸するであろう米軍へのいたずらとして「ペスト患者収容所」と書かれた立て看板を兵舎前に残して行きました。
語学将校として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳すると、上陸部隊は一時パニック状態に陥り、大量のペスト用血清を本国に要請したとか。

地下司令部には、星条旗で仕立てた座布団がテーブルの周りに敷かれ、黒板には「お前たちは、ルーズベルトの馬鹿げた命令に踊らされている」と書かれていたり、また爆撃された米軍機のパイロットたちの遺体は丁重に葬られており、木製の墓標に「祖国のため青春と幸せを失った空の勇士、ここに眠る。日本陸軍」と記されていました。

結果として、濃霧を待った2度目の出撃で、偶然にもアメリカ軍が島の包囲を解いていた隙をつくという、日本側には有利な条件が重なったことも事実ですが、木村少将の霧に身を隠して一気に救出するという一貫した戦術指揮も大きく作用したのです。

戦後、この作戦に参加した将兵やキスカ島からの撤退した将兵たちは、「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」「生還できたのは天佑神助としか思えなかった」等と述べています。

この作戦が成功したのは、偶然とはいえ、作戦遂行中に日本軍に都合の良い状況がいくつも展開され、日本軍側の判断がその状況を上手く利用できたからと言えるでしょう。
こういったことも、この作戦が「奇跡の作戦」と言われる所以でしょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺