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法話

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法話--平成21年7月--

こころ(13)--非心非仏--

無門関第三十三則 「非心非仏」(ひしんひぶつ)
本則
馬祖、因に僧問う、如何なるか是れ仏。祖曰く、非心非仏。

馬祖にある僧が問います。「仏とはどんなものですか」 馬祖が答えました。「仏とは心でもなければ仏でもない」

この公案も前回の公案「即心即仏」も同じ馬祖の説法でありますが、語意からするとまったく相反する内容です。 「即心即仏」では心が仏であると明言したばかりです。
それが今度は、仏とは心ではないと断言しているのです。
はたまた一体どうことでしょう。

「自分はあくまで『即心即仏だ』」と言って譲らなかった大梅に「梅の実は熟したな」と言って印可を与えたのは師でもある馬祖自身でした。
その馬祖が今度は「非心非仏」と主張しているのです。その真意は何でしょう。

結論から言ってしまえば「即心即仏」も「非心非仏」も"同じもの"なのです。
言葉としてはまったく矛盾していますが、「即心即仏」が本当に理解できれば「非心非仏」も同時に理解できるのです。
何故ならば両者は表裏一体だからです。

大梅は「即心即仏」で悟りを徹底され、すべての迷い、無明を晴らしたのです。
だから「即心即仏」のそれ以外必要なものは何もないのです。
当然「非心非仏」など関係ないのです。
馬祖は大梅のその"完熟"を認めたからこそ印可を与えたのです。

何も求めない"心"こそ悟りだという、前回の「即心即仏」の"答"を思い出してください。
その何も求めない"ところ"を「非心」と表現しているのです。
つまり表現が違うだけで意味している中身は正に同じ畢竟空の"実体"そのものなのです。

前回から言っているように、心の実体は畢竟空なのです。
ですから畢竟空を悟れば、それを「心」と言おうが「非心」と言おうが違いはないのです。
繰り返しになりますが、何も求めない「心」に「心」の意識はありません。
有るのは畢竟空の"そのもの"だけです。"そこ"が即ち「非心」なのです。

公案はすべて言葉を超えたところの真実、事実だけを示唆しています。
ただただ真実を問うのが公案なのですから。

拈提
無門曰く、若し者裏(しゃり)に向かって見得(けんとく)せば、参学(さんがく)の事(じ)畢(おわ)んぬ。

「者裏」とは、「このなか」ということであり、「非心非仏」のこの公案のことです。
「見得せば」とは、「親しくわがものにしたならば」ということです。
「参学の事畢んぬ。」とは、「参禅学道の目的は達せられた」ということです。
つまり、この公案を透過したならば修行の目的は達せられるだろうと言っているのです。
実に簡潔明瞭ですが、言うまでもなくどの公案にも当てはまる拈提です。 公案の答えは全て一つだということです。


路(みち)に剣客(けんかく)に逢わば須(すべか)らく呈すべし、詩人に遇わずんば献ずること莫(なか)れ。
人に逢うては且(しば)らく三分(さんぷん)を説け、未だ全く一片を施すべからず。

「路に剣客に逢わば須らく呈すべし」 剣の達人に出逢ったら剣を差し出せというのです。
「詩人に遇わずんば献ずること莫れ。」 詩人に出逢ったら剣を差し出してはならないというのです。
この意味は、剣客でない者に剣を与えたら大怪我のもとになるということです。
詩人でない者に詩を与えても単なる紙屑にしかならないということです。

これは何の喩えでしょうか。
「即心即仏」がほんとうに理解できた者ならば「即心即仏」で十分だということです。
「非心非仏」がほんとうに理解できた者ならば「非心非仏」で十分だということです。
つまり、「即心即仏」がほんとうに理解できていない者に「非心非仏」だと言ったらそれは徒に惑うだけであり、その者は確実に魔道に陥ってしまうことになるのです。

馬祖が「即心即仏」と説くのも「非心非仏」と説くのも、それは説く相手を視てのことです。つまり剣客か詩人かを見分けて説いているだけのことです。
剣を使おうが詩を使おうがその狙いは一つなのです。

「人に逢うては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず。」 一片とは全部ということです。三分とは三割ということです。
つまり、人に説法するときには、初めから全部を言ってしまうのではなく、三割程度に抑えておくのが良いというのです。

馬祖が「即心即仏」と説くのも「非心非仏」と説くのも、それは初めから一片(全部)を与えてしまっていて、親切過ぎるというのです。
十のものならば、まずその三割程度を説いて後りの七割は本人自身の修行に任せるべきだと評しているのです。

一見馬祖に対する批判のようにも思えますが、これも勿論言貶意揚(ごんべんいよう)であって、馬祖の悟境を讃えると共に修行者に対して策励を与えているのです。
優れた指導ははじめから手取足取りの指導はしません。
駿馬の喩えにもあります。優れた修行者は鞭影を見て走り出すのです。

現代の教育はどうでしょうか。
鞭影どころか、鞭そのものを見ても動かない者、さらに鞭で叩いてみてもなかなか動こうとはしない駄馬が多いようです。
手取足取りの親心が返って仇になっているのではないでしょうか。

教育とはただ食事を与え成長させることではありません。
知育・徳育・体育と言いますが、この三つは決して別個のものではありません。
すべて一つに結びついているものです。
そのこころはまさに"心"です。

今の世の中がこれほどおかしくなってしまったのはまさしく人の心がおかしくなってしまったからに他ありません。
人の行動の全ては心で決まるのですから。
しっかりした教育のないところに安心も平和もありません。

しっかりした教育の元になるのはしっかりした宗教です。
日本人の多くが無宗教を自認しているようですが、信条や理念の無い人が多いのはその辺に原因があるのかもしれません。
宗教というものをもう一度考えてみて欲しいものです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺