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法話

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法話--平成18年11月--

--恩 (その4)― いまこそ徳育 ― --

毎日毎日虐待といじめのニュースばかりです。
いじめによる自殺の連鎖が止まりません。
子どもに止まらず教師や校長先生が自殺をするという事態までも起こっています。

特に先般いじめによる自殺予告の手紙が文部科学大臣宛に届いてからその種の「予告」が相次いでいます。
この11月19日現在でなんと27通にもなっているとのことです。

先生、教育委員会、文化省など教育関係者は恐々としていることでしょう。
今やメディアの中心はいじめと自殺の問題となってしまいました。
テレビ番組も連日教育問題をとりあげ教育評論家やコメンテーター、それにタレントが加わり様々な議論を交えています。

新聞からいくつかの意見を拾ってみました。
「子供からのサインを絶対に見逃さないための努力と、事実を受け止め、きちんとした対応をとる」(某有識者)
「いじめられる子の逃げ場を作る。」(某中学校長)

「いじめを疑ったら学校組織で徹底糾明する。加害生徒の親にも改善要求を突きつける。教育委員会や警察、地域もアンテナの感度を高めて学校の中を注視する」「校長を孤立させない。」(某新聞社説)
「いじめっ子のために死ぬなんてばかばかしいよ。相談においで。一緒に解決しよう。」(某氏)

「いじめられる子供には今は苦しいが、この経験は自分自身を変える種になるかもしれないという視点を持たせ、いじめる側には、いじめしかすることがないのかと思わせるようにする。」(某教育評論家)
「いじめに負けない強い精神と心を鍛える。」(某タレント)

どの意見もごもっとものように思われます。
しかし、残念ながら的を射たものとはいえません。
それらはどれもみな対症療法にすぎないからです。 病気と同じです。
症状だけを診て手当を施してもその病根を治療しなければ善くはならないのです。

確かに今現在虐待やいじめで一刻の猶予もままならない子供が不特定大勢います。
当面はその子ども達に対する緊急の対応が必要でしょう。
それと私が言いたいのは同時に長期的普遍的な解決を目指した方策が必要だということです。

恒久的な指導対策が確立されなければ真の解決とはならないからです。
どんな問題であれ問題の解決にはまず原因の究明と、その的確な対応を講ずることにあるのですから。

さて、初めから考えてみましょう。
まず「教育」って何でしょう。
それは誰もが知っているとおり、知育・徳育・体育でしょう。
現在そのバランスが完全に崩れ去ってしまっているのです。
はっきり言うと徳育がなおざりにされて知育偏重になってしまっているのです。

ではなぜ知育偏重になってしまったのでしょうか。
それは経済主義と物質主義がもたらした結果なのです。
戦後日本は貧しさから抜け出すために必死でした。
幸い日本人には元々は労働に対する強い美徳観が有りました。

寝食を忘れたように一生懸命働きました。
戦後60年、結果日本は奇蹟の経済復興を遂げ世界ナンバー2の経済大国になりその豊かさを享受したのでした。

しかし、それも束の間、豊かさを求めて突っ走ってきて、今立ち止まってみたら手元には"物"しか見当たりません。
心の中に優しさやおもいやりの"情"が見当たらないのです。
実に"情けない"状況です。

「形のある物にこそ価値がある」とするのが物質主義です。
これに対して「こころの豊かさこそ真の豊かさ」であるとするのが精神主義です。
知育・徳育・体育とは看板だけであって、本音は勉強さえできればいいという、その心は知育第一主義だったのです。

これを知育偏重と言うのです。
その結果が、良い学校、良い大学、良い資格、良い仕事、そして最後に良い収入であったのです。
こうして経済力が豊かさの象徴であるという価値観が戦後定着したのです。

そして、地位も名誉もすべてお金次第であるというこの偏った価値観が定着し、ついに「物質主義」が"完成"されたのです。
そこには当然優しさとおもいやりのある精神主義が追いやられてしまっていたのです。
物質主義にかぶれると人は餓鬼道に堕ちます。

餓鬼道とは欲望により善悪の判断を無くしついには地獄に堕ちてしまうという世界です。
知育偏重による偏った価値観にはそういった恐ろしい餓鬼道も待ち構えているのです。
ついでに申し上げるならば、そこで見落としてはならないことは、その偏った価値観はさまざまな差別感を生んでいるということです。

知育偏重が学歴偏重や職業偏重の感覚を生み出し、人を学歴や職業で決めつけるといった実に危うい感覚を生みだしているのです。
学歴や職業で人を決めつけるというのはまさに差別です。
更にその知育偏重の結果生じたものに例の高校での履修ごまかし問題があります。

受験科目だけが贔屓(ひいき)され、皆でやれば怖くないごまかし授業が黙々と行われていたのです。
指導要領とは一応学校教育のバランスを図っての国の指導基準です。
その法的な指導要領を無視してまで進学一辺倒の"予備校"授業がほぼ日本中の高校で行われていたのです。

その教科偏重により、必修教科の「歴史」は切り捨てられてしまったのです。
歴史は人間にとって大変重要なものです。
過去を知ることで現在が分かりそして未来が見えてくるのです。
歴史を個人のレベルで考えてみましょう。

もし仮にあなたが今自分自身の過去を失ってしまったとしたらどうでしょう。
丁度一切の記憶を無くしてしまった状況を想像してみてください。
自分の家族や親、先祖や出身地のことが全く分からなくなったらどんな心理状態になると思いますか。
多分自己確信ができず不安によるストレスで自信も希望も失ってしまうでしょう。

人は犬や猫と違うのです。
人は自分の過去を認識することで自己確信をします。
先祖を知りルーツを知ることで父母の恩、祖先の恩、衆生の恩そして国の恩を知るのです。

郷土や国の歴史も同じです。
自国の歴史を知ることで民族の伝統や文化に誇りを持ち、未来に希望と責任感が持てるのです。
歴史を重んじないところには何の発展もありません。
家族愛も人類愛も愛国心もありません。
あるのは国家の衰亡だけでしょう。

歴史の教科書を買わせるだけ買わせて埃をかぶらせていたのですから実に情けない話です。
どうですか。歴史教育こそ「徳育」の宝庫と知るべきです。
この知育偏重の風潮は高校だけではありませんでした。
義務制の学校にも見られたのです。

これもつい最近のことです。
東京都足立区教育委員会は区内の小・中学校を学力テストの結果から四段階にランク付けをし、そのランクに応じて特別補助金を分配するという案を出しました。
教育委員会は「やり甲斐と目的意識を持たせた妙案」として大層な自信でしたが、予想外の批判に結局この案は撤回されました。

しかしまったく教育というものの何たるかを分かっちゃいないのが教育委員会のオエライ方達です。
ダイタイですね、今大問題のいじめ、自殺の問題にしろ、戦後の日本の教育がこれほどおかしくなってしまったその責任の大半は教育委員会にこそあるのですよ。
そんな当事者としての自覚や反省を果たして感じているのでしょうかね。
とても感じているようには思えません。そんな組織無くともいいんじゃないですか。

今回のいじめ問題で世間もようやく教育委員会の実態に気付きはじめたようです。
教育再生会議からも教育委員会不要論が出てきています。大賛成です。
だいたい教育委員会も叙勲待ち組の天下り組織のようなもんじゃないですか。
これって言い過ぎでしょうか。

しかし、日本の教育の真の再生を考えたとき問題は教育委員会不要論とか組織体制論とかの時限ではないのです。
本当の問題はいわば「知育偏重教」という邪教にかぶれてしまっているこの日本人の頭からまず知育偏重の"呪縛"を解くことなのです。
これら"邪教"によるマインドコントロールから解放されない限り日本にこれからも健全な教育は戻ってはこないでしょう。
以上、知育偏重の原因とその"弊害"について縷々述べてきましたが、そのことから私が最も言いたいことは「徳育」の必要性なのです。
徳育というものが知育偏重の陰に追いやられ、なおざりにされた結果がズバリ「いじめ」の問題となっているからです。

いじめ問題は昨日今日の突然変異で出現したのではありません。
戦後60年間の物質主義による知育偏重の陰に追いやられた徳育不在の結果なのです。
その付けが今大きなうねりとなって日本中の家庭、学校、社会を襲っているのです。

いいですか。「因果必然」の言葉を思い出してください。
原因の無い結果はありません。
結果の無い原因もありません。
これは大宇宙の絶対の法則なのです。

次に徳育欠如の教育こそいじめの原因というそのメカニズムについて述べてみたいと思います。
今回はちょっと話が長くなってしまい恐縮ですが、どうか聞いてください。
これからが重要なのです。

子どもは小学校に入学以来全てにおいて勉強の成績で評価されてきました。
まさに知育偏重によるものです。
教師も親もそしてこども達自身も成績こそ一番重要だと信じ込んでしまったのです。
そこから成績の良いのが「良い子」だという成績至上主義が形成されました。

これは裏を返せば、成績の良くない子は"ダメな子"だという表と裏の論理構造になるわけです。
成績イコール人間評価というとんでもない価値観が植え付けられてしまったのです。
どこにも成績のトップは一人しかいません。
残りの全ての子供にとって自分より上位がいるのです。

そこで生まれてくるのは比較による競争意識と劣等感です。
その競争意識のストレスと劣等感の反動から現れたのが弱者への抑圧なのです。
比較され被差別感を持った子供はその劣等感と鬱憤(うっぷん)の吐口を弱者に向けたのです。
性格的或いは体型的特徴のある子供などが特にターゲットにされたのです。

徳育とは一言で言えば「人は皆等しく尊いのだ」という教えです。
それを論理的にも感情的にも教え伝え、人としての理性と情けを身につけさせるのが徳育なのです。
そうでしょう?教育委員会殿。分かっていましたか?

「いじめ」は人としての理性と情が動物的弱肉強弱の本能に負けてしまった結果起こるのです。
いじめだけではありません。
どんなに優秀な人間であっても生育の課程で適切な徳育を欠くと歪んだ性癖を持ってしまうことにもなるのです。

徳育に裏打ちされた教養でなければちょっとした誘惑にも勝てないのです。
スカートの下を手鏡で覗きたいという小さな欲望にも勝てない"人格者"が育ってしまうのです。

わが子虐待殺人事件を起こした最近の進藤美香の事件や例の畠山鈴香の事件にしろ、その二人はほぼ同じような生育環境にあったといわれます。
その共通点はまず弱者としてターゲトにされたことでした。
二人とも小・中・高時代を通して大変いじめられたそうです。
その疎外感から受けた深い心の傷が元で心がすっかり歪んでしまったのでしょう。

歪んだ精神は我が子を虐待し、ついには殺害するという非人間性の行為に及んでしまったのです。
虐待が虐待を生むという虐待の世代間連鎖が定説となっていますが、この点から言えることはいじめも虐待も本質は同じなのです。
自分が受けたいじめが我が子虐待という形で現れたのでしょう。

この理論から言えば、いじめられる側もいじめる側も被害者なのです。
いじめは単にいじめる側が悪いとしていじめた子どもを罰すれば済むと言うのはまったくのオンチのお門違いです。
いじめる側も被害者なのです。被害者を犯人扱いするようなものです。

ちょうど今日のニュースでした。
ある人気の有名な教育評論家(教育再生会議メンバー)が「いじめをしている側に厳しい対応を」と言っていましたが、いじめる側の子供を"悪"と決めつけるのではなく、なぜその子供の"心の叫び"を聞こうとしないのでしょうか。

いじめる子供の心にこそ解決の糸口があるのです。
いじめる子供の心を集めてみてください。
その心を紐解いてみてください。
その中に必ず解決の答えが有るはずです。

"いじめる心"にこそいじめられる心の叫びがあるのです。
そこまで分かっている有識者が果たして一人でもいるのでしょうか。
とにかく、"いじめる心"をターゲットにしてみてください。

そしたらきっと見付かるでしょう。
これもあれもすべては徳育不在の偏重教育によってもたらされた心の貧困から生まれた「愛情不足」であったことを。
今こそ徳育に眼を向け、その実践について鳩首凝議すべきなのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺