台風15号で終わりではありませんでした。
ひと月も経たないうちに巨大な19号がほぼ同じコースをたどり追い打ちをかけました。
更にその後25日に記録的豪雨が襲い、関東甲信、東北地方にかけて未曾有の被害をもたらしました。
昨年の西日本豪雨に続き今年は東日本で甚大な被害が起きました。
特にひどかったのは豪雨による水害です。
なんと71河川170ヶ所で氾濫が起こりました。そのあまりにも酷い被害状況に言葉がありません。
破壊された道路や家屋、水没した家や車や田畑、土砂崩れなど想像を絶する酷い光景をマスコミは連日伝えています。
災害規模ではあの東日本大震災を上回るものになるとか。
大自然の猛威を改めて見せつけられました。
ここ館山でも15号による被害のあと立て続けにきた19号とさらなる豪雨により被害は一層拡がってしまいました。
館山市だけでも被害を受けた住宅は7,000戸を超え、業者不足のため修理は早くて半年以上先になるとか。
当山も三連発の襲撃を受け、ブルーシートもなくなり本堂屋根の雨漏りはひどくなる一方です。
床にブルーシートを敷き80個のバケツで雨漏りを受けていますが大雨になると対処できません。
業者は頼んでありますが先は見通せません。
それでも、もっと酷い状況下にある人たちのことを考えれば当山はまだまだまだ良いほうです。
現にあるお寺さんは本堂の屋根がすっかり飛ばされ堂内の仏具も全部駄目になったそうです。
この一連の災害で家や住む場所を失った人、工場やお店を失ったり田畑や農園が破壊されたりして生活の基盤を失った人、先の目途の立たない人のなかには店を畳んだり廃業を考えている人も多くいるとか。
そんな人達の気持ちは察するに余りあります。
一方、そんな被災地にとっていつも助け励まされるのが自衛隊やボランティアです。
ここ館山でも全国各地から派遣された「災害派遣」の幕を掲げた自衛隊車両を多く見かけます。
特設風呂や炊き出し、ブルーシートの指導など実に自衛隊サマサマです。
そしていつも被災地に必ず現れ助けてくれるのがボランティアです。
被災者に寄り添い懸命に復旧作業を手伝う姿に被災民は励まされ勇気をもらいます。
自分にはできないだけに彼らにはいつも頭が下がります。
言うまでもなくボランティアは、無償の奉仕活動です。
人の為にとか、社会の為にとか、博愛だとか絆だとか口で言うのは簡単ですが、ボランティアは大きな自己犠牲精神がなければできないたいへん勇気ある行為です。
そんな打算のない見返りのない奉仕活動こそ、仏教でいうところの菩提心から発せられた布施行です。
今回は、そんなボランティアの「布施行」から、「善人」とは何かについて考えてみましょう。
では、「善人」の概念とは何でしょうか。
ちなみに広辞苑をみると「善良な人」とだけ記されています。
もっと論理的な説明はないのでしょうか。
拙僧の持論から言えば、それは「ひとのために尽くせる人」であり、仏教的に言えば菩提心を持った「布施行のできる人」のことです。
ではそんな「善人」とは具体的にはどんな人のことでしょうか。
布施行の一つボランティア活動から考えてみましょう。
ボランティアといえば、今や「スーパーボランティア」ですっかり有名になった尾畠春夫さんです。
彼の生き様に「善人」を見ることができるのではないでしょうか。
そもそも、尾畠さんはなぜボランティアを始めたのでしょうか。
そのきっかけは四国のお遍路だったそうです。
「私はよく旅をしました。そんな中で四国のお遍路道を歩きました。そこで受けたおせったいが忘れられなかったのです。」
おせったいとは寝床や食べ物を無償で提供するなど、善意による様々なおもてなしのことです。
「知らない人からいろいろな物をもらいました。
親切にしてくれた人にあとでお礼をしたいので、電話番号や住所を聞いても、『お遍路さん、ここでは何かをあげたからって恩には着せない。もらったからって恩に感じなくていい』と言われました。」
その無償の精神に感銘を受け、65歳で魚屋を畳んでからは残りの人生をひとの為に尽くそうと思い、身体が健康で車の運転ができる限りは、被災地行ってボランティアをしていこうと決心したといいます。
見返りや損得勘定をする人や妬みや嫉みなどの強い人にはとてもボランティアは務まりません。
他人を慮る心のある人、困った人を見過ごせない人、他人の身になり寄り添える人、これこそボランティアの資格ではないでしょうか。
尾畠さんは大好きなお酒について聞かれました。
「酒はやめています。私はもともと大酒飲みでした。飲むというか、浴びていました。
ただ東日本大震災で我慢しながら仮設住宅に住む人たちを目の当たりにして、酒は我慢することにしました。
仮設住宅の人が全員外に出るその日まで、酒は飲まないと決めています。」
被災者によりそい、その人達が全員仮設住宅から出るまで、自分の嗜好を我慢するというその「願かけ」こそ菩提心(自未得度先度他の心)ではないでしょうか。
「菩提心」とは、つまり自分がいまだ度(わた)らない前に他の人を渡して(助けて)あげようとする心根のことです。
自分より他の人を優先するという思い遣りの心はなかなか持てるものではありません。
そして大事なことは、善人が布施行をするのではなく、布施行するのが善人になるという理屈です。
布施行は善人の“特権”ではなく「善人になる」修行なのです。
仏教の眼目はなんといっても「善人になる」ことですから。
「その形陋(かたちいや)しというとも、この心を発(おこせば、すでに一切衆生の導師なり)(道元禅師)
「その形」というのは、その風貌あるいは容姿というような意味です。
悪業の果報としての地獄道とか餓鬼道、ないし畜生道というような悪趣におちた者は、醜悪な姿をしています。
しかし、たとえ、そのような陋(いや)しい容姿をさらしている者であっても、「この心」すなわち菩提心を発こすならば、その醜いすがたかたちのままで、一切衆生の導師たりうるというのです。
菩提心を起こすということが、どれほど尊いものであるか、ということが示されています。
「此(この)心を発(おこ)せば、巳(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流(にょりゅう)なりとも即(すなわ)四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父(じふ)なり、男女(なんにょ)を論ずること勿れ、此れ佛道極妙の法則なり」(道元禅師)
たとえ僅か七歳の童女であっても、もし菩提心を起こすならば、「四衆導師」とも「衆生の慈父」ともいうべきものであるという。
また男女の別などあえて論ずるところではない、これが、「佛道極妙の法則」だというのです。
「極妙」の「妙」は、すぐれた、深遠な、という意味ですから「最高に優れた」法則(真理)だということです。
菩提心によって老若男女、年齢や地位を問わず誰でも導師(善人)になれるのです。
善人は全てに感謝しますが、善人になれない人は全てに不満をもちます。
善人は他人の幸福を喜びますが、善人になれない人は他人の幸福を妬みます。
善人は他人に寄り添えますが、善人になれない人は自己中に徹します。
善人は自分を幸せだと思いますが、善人になれない人は自分を不幸だと思います。
善人は好かれますが、善人になれない人は嫌われます。
二度とない人生、あなたはどちらの人生を選びますか。
合掌