人生四苦八苦、前回はその最初の「生苦」について学びました。
今回はその次の「老苦」です。
老苦とは文字通り老いる苦しみです。
時々刻々と老いているのが生き物の宿命であり、人間もまた例外ではないことは、誰でも当たり前のこととして受けとめています。
釈尊ですら、晩年ご自身の衰えを「私の体はちょうど古い車が革紐の助けを借りてやっと動いているようなものだ」(大般涅槃経)と述べられています。
人間である以上、必ずやってくる老化による様々な苦しみ、その避けて通ることができない苦しみをいかに克服するかが今回のテーマです。
人は誰でも歳はとりたくない、老いたくないという願望をもっています。
それは歳をとるにつれて、体力、精神力はどんどん衰え、老醜になるからです。
あの天上界にさえ老化による「五衰」(前回参考)があるのです。
五衰こそまさに老醜なのです。
美しく老いるとか言う言葉を聞いたりしますが、老いが美しく望ましいものであろうはずがないのです。
できたら少しでも歳を取りたくない、老けたくないというのが本音の筈です。
本音抜きに問題の実態は見えてきません。
若き釈尊ゴータマも「四門出遊」で出会った老人の老醜にショックを覚え、自分も何れあのような姿になるであろうと思い、老いは醜い、若い方がよい、自分はああはなりたくはないと感じて深く苦悩したのです。
「四門出遊」が伝説の域を出ない以上、実際に釈尊が老化に対してどれ程の思いを持っていたのか本当のところは分かりません。
ただ人にとって老苦の存在が厳然たる事実である以上、人はそこから解放されなければならないのが仏教の立場なのです。
何度も言ってきたことですが、仏教の目指すところはあらゆる苦悩からの解放です。
解放無くして真の安楽はありません。
それには先ず老化の実態を学び、その実体を悟ることで解放を目指すというのが今回のシナリオです。
ですから、本論で述べていることは、決して老人を蔑視したり軽視しているのではありません。
老人を大切にし尊重すべきであることは言うまでもありません。
ただ礼儀や倫理上の考え方と、一大宗乗の問題としての解決を目指す仏教の立場は分けて認識する必要があるのです。
古くなることには、くたびれたもの、間に合わないものという通念がありますように老化もその実態は老醜なのです。しかし、そのすべては長い年月を通して人生の風雪に耐えてきた結果なのであり、"老醜"には人生の尊い重みがあることを知るべきです。
老化の中でも先ず端的に現れるのが容姿、容貌の衰えでしょう。
男女を問わず誰にでもあるのが、いつまでも若く格好良くいたい、もてたいという願望です。
しかし「無常たのみ難し」です。
どんな若さも美貌も"無常の風"による"風化作用"から逃れることはできません。
人にとってその風化作用こそ"老化"と言うべきものです。
それは丁度「酸化」の原理に似て、人も歳をとることで体のあらゆる部分を"酸化"させているのです。
ですから体にも当然"耐用年数"があるのです。
人はそれを"寿命"と呼んでいます。
若い時には気にもならなかったことが、齢を重ねる毎に老化として現れてきます。
腹は出る、歯は無くなる、老眼は進む、加齢臭は出る、足腰は弱まるわ、頭は禿げるわで、あれほど男前だった風貌もかなり褪せてきます。
俗に言う「ハメマラ」の衰えで"男の方"の自信も失せたころ、しっかり「老苦」を実感するのです。
心身一如ですから、精神力も同時に弱まります。
思考力、記憶力、判断力も衰え、痴呆や交通事故のリスクも格段に高くなります。
女性も同じです。顔にはシミ、皺が増え、化粧のノリも悪く、首は太く、肩から尻まで寸胴、(失礼、勿論例外はあります)あの瑞々しいくびれた曲線美は何処へやら。
昔は振り向いてくれた人もいたのに、あ~ぁ"あれから40年"とはこのことか、と人ごとでなかったことに気づくことで、老化の現実を実感するのです。
「紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。つらつら観ずるところに、往事の再び逢うべからざる多し」(修証義)
あの紅顔の美少年は何処に行ってしまったのでしょう。
あの瑞々しかった"永遠"の美少女は何処に消えてしまったのでしょうか。
何処を探しても何の跡形もありません。
「白髪三千丈、愁いに縁りてかくのごとく長し。知らず明鏡のうち、何れの処にか秋霜を得たる」(李白)
鏡に映る我が姿を見て、あらためて「いったいどこでこんなに老けてしまったのだろう」というそのショックたるやまさに"三千丈"です。
拙僧自身、その都度ショックを受けるのが車の免許更新時です。
その時に撮った写真と前回のものとつい比べてしまいます。
その都度その老け具合いに驚くのです。
写真は正直です。
たかが5年とはいえ老化の程度を歴然と証明してくれるのですから。
また、写真は過去の若き日の初々しい姿も証明してくれます。
自分も昔はこれだけ若かった、弾けていたと主張できるのです。
しかし、それも哀れな話。"あれから40年"の今の現実を誰が想像できたでしょうか。
過去は幻、昔の話や、同じ話を繰り返すようになったら間違いなく「老害」です。
以上、老苦の厳然たる実態を受けとめていただいたと思います。
"実態"を味わったところで、次にその「実体」について学んでみましょう。
苦悩の実体、それは事実を認めたくないという心の葛藤なのです。
誰でも歳をとれば当たり前のことだと分かっていながら、本音のところではその事実を認めたくない自分がいます。
「苦悩」は、事実に対してそうあって欲しくないという反動の感情から生まれる不安感なのです。
では釈尊はそれらの苦悩をどうやって解決されたのでしょうか。
般若心経の冒頭に、「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」とありますように、「深く智慧の世界に至り、自分の全てを空だと悟ったとき、全ての苦悩から解放された」のです。
釈尊はお悟りにより大自由を得られ一切の苦から解放されたのです。
「色即是空」の色は形あるものを指し、それを現象と捉えます。
現象は時々刻々と変化するものです。
その現象が「行」ですから、世の中の全てはうつろい行くものという意味で、「諸行無常」と言います。
「色即是空」とは、この世の存在の全てを「色」とし、その実体は「空」であるというのです。
「色」は「現象」であるが故に「無常」なのです。
だから人間も現象であるが故に刻一刻と老化しているのです。
諸行の実体は空だと悟ることで、一切の現実を"あるがまま"受け入れます。
「あるがまま」の現実を「あるがまま」受け入れることを「諦め」といいます。
「諦め」はギブアップではなく、明らかに納得するという意味です。
つまり存在する全てはまさに縁に随った完璧なものだと悟ることです。
涅槃の世界は完璧な世界です。
余分なものも不足したものも全くありません。
老化それ自体が"完璧"なのです。
ですから「老化」に対して"こだわる"という迷いなど一切ありません。
これが悟りであり即ち「苦悩」からの解放なのです。
曹洞宗大本山永平寺に「不老閣」という建物があります。
そこにお住まいのお方こそ大本山の住職、不老閣禅師です。
その名の示すとおり、まさに「不老」の境涯にあるお方がおわします処という意味です。
合掌