今まさに桜の花見シーズンクライマックスを迎えています。
日本の桜の魅力もすっかり世界的になり、今年も多くの外国人がわざわざこの時期来日し、日本の花見文化を楽しんでいる様子が報道されています。
ここ館山に里見氏ゆかりの館山城がありますが、その城山公園もちょっとした桜の名所になっています。
拙僧も先日ちょっと出掛けてきましたが、土日でないにも拘わらず多くの人出で賑わっていました。
ネット情報社会のせいか県外からの車も多く見られました。
今年の花見による経済効果は試算によると6517億円にもなるとか。
今年は好天に恵まれ春の嵐の心配もないようなので、経済効果も予想以上に伸びるかも知れません。いよいよ春本番です。
その昔、うららかな春の日差しの降り注ぐ中、お釈迦さまは何人かのお弟子さんと共に、野中の道を歩いておられました。
冬の眠りから醒めた草木が、とりどりの花を咲かせている丘で、お釈迦さまは、足元を指して、「ここにお寺を建てるといいね」と申されました。
お弟子さん達に混じって御伴をしていた帝釈天が、一本の草をお釈迦さまの指さされたところに挿(さ)され、「お寺が建ちました」と申しあげました。
すると、お釈迦さまは満足げにニッコリと微笑まれました。
「挙す、世尊、衆と行く次いで、手を以って地を指して云く、此の処宜しく梵刹を建つべし。帝釈、一茎草を将って地上に挿んで云く、梵刹を建つること已に竟んぬ。 世尊微笑す。」
この話は「従容録」という禅宗の祖録の第四則「世尊指地」の本則ですが、穏やかな春の日の一瞬のできごとのこのやりとりの公案の意味するものは一体何でしょうか。
宏智正覚禅師はその頌で、「百草頭上無辺の春 手に信(まか)せ拈じ来たり用い得て親しし」と示されています。
春は地上にあるすべてのものの上に平等に訪れ、春の命が全く平等に注がれている。
その春の命はまさに佛性でありその陽光はまさに慈悲である。
そこには人の分別や凡夫の物差しなどまったく入る余地はない。
あるがままの春の如く、我々も全身全霊でその場、その時に臨まなければならない。
修行は普通お寺という道場で行いますが、本来修行というものは時も場所も選びません。
即時、即座が修行なのです。
大伽藍の中と麗らかな野原とで本質的な差などないのです。
例えここが野原であれ、ここがお寺だと思えばそこがお寺になるのです。
まさに「却下照顧」、つまり「足もとだよ」ということです。
「人生の生き方は歩々是道場」であるから、この場こそまさにお寺(道場)ですよ、という意味で帝釈天が一草を地面に挿して釈尊に示したのです。
本物の道場とは、いつ、どこであっても、「今、ここ」でしかなく、本物の修行とは、「今、ここ」に命をかけることです。
「寺という道場はいつでもどこでもその場その場が道場である」という、帝釈天の反応に釈尊は感心して微笑されたのです。
法華経・神力品に次のような言葉があります。
「もしは園中においても、もしは林中においても、もしは樹下においても、もしは僧房においても、もしは白衣の舎にても、もしは殿堂にありても、もしは千谷広野にても、是の中に皆まさに塔を起てて供養すべし。ゆえはいかん。
まさに知るべし。是の処は即ちこれ道場なり。」
どの一刻も「今」でない時はなく、「ここ」でない場所はない。
食事をしている「今、ここ」、お手洗いで用をたしている「今、ここ」、仕事している「今、ここ」であろうとも、どんな一瞬も「即ちこれ道場なり」です。
人生の旅路の中には喜びの日も悲しみの日も、怒りや苦しい、逃げ出したい日など、いろいろあるでしょう。
人生は喜怒哀楽の様々な現実との向き合いです。
いかなる「今、ここ」に対しても前向きにあきらめずに真摯な姿勢で取り組むことが「自分の寺を建てる」ことなのです。
春がすべての上に平等に働きかけるように、仏の働きはいつでも、どこでも一切のものをつつみ込み、生かしてくださっているのです。
何の分け隔てなく万民平等に見守ってくださっている、それが仏の慈悲であり、それに感謝し応えるのが供養です。
「降る雨は同じであっても受ける草木によって異なる」(薬草喩品)
しかしながら、すべての人々を、子のように慈しむ仏の慈悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じて、その救いの手段には相違があるというのです。
「降る雨」とは恵みの雨であり、それはすべてに等しく降り注ぐ如来の慈悲の譬えのことですが、その恵みは受ける人すべてに平等ではないというのです。
それは何故でしょうか。それはズバリ「縁」による格差です。
仏教の教え、釈尊の教えを一言で言うならば「因縁」の教えに尽きます。
つまり「因と縁と果の法則」であり、良き因と縁によって良き果がもたらされるという誰もが知る極めて合理的な因縁論に他なりません。
すべての命は、ご縁によって「生かされている命」ですから、その自覚を持って生活している者とそうでない者とでは、当然そこに結果としての差が生じるのです。
ただし、たとえ因が同じでも縁を変えれば果は変わる。だから仏教は「よき縁を」と強調するのです。
何よりも「良き縁」をつくること。その教えこそが「四諦八正道」なのです。
四諦とは苦諦、集諦(じったい)、滅諦、道諦の四つで「諦」は「真実、真理」を意味します。
苦しみという結果が出た。それには必ず原因がある。
これが苦諦と集諦で、滅諦はその苦しみが転じて安らぎとなった世界であり、道諦はその安らぎの世界への実践道で、その中味が八正道として説かれているのです。
この世はすべて歴然たる因、縁、果の世界なのですから。
その縁を良くするも悪くするもすべては本人の自覚次第です。
その自覚を正すのが八正道、まさに文字通り「八つの正しい道」なのです。
正という字は、単に正しいということではなく、「真ん中、中央」という意味です。
つまり偏らないということです。
偏りとは、たとえば偏見、偏食、偏執といった言葉がある通り、心に偏りがあるということです。
仏教は中道の教えといわれるのは、つまり偏りを正す教えだからです。
ものごとに固執して偏った考え方や行動からすべての不幸や苦しみが生じるのです。
たとえば、体によくないと分かりつつも暴飲暴食を続けたり、不規則な生活を繰り返したりしていたら健康を損ない病気になるのは当たり前です。
つまり、自業自得という道理が分からないか、或いは分かっていても実行できないという「縁」によってもたらされる不幸なのです。
だからその悪い「縁」を断ち切り、よき「縁」に導くための教えが八正道なのです。
何よりもそんな偏りのない中道を歩まなければならない人こそ国政の指導者でしょう。
今の安倍政権とその与党の政治家にそんな矜持がまったく感じられません。
森友学園問題や加計学園問題など、疑惑は一層深まったままです。
まさに安倍一強による悪因の結果であり、これは国政の私物化であり犯罪行為にほかなりません。
これが許されるとしたら最早民主主義ではありません。
今まさに日本人の資質が問われています。
合掌