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法話

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法話--令和2年9月--

太平洋戦争の真実 その6 ―帝国海軍中佐工藤俊作 その2 武士道 ―

昭和17年2月27日から3月1日にかけてジャワ島北部のスラバヤ沖で、日本海軍と英米欄の連合艦隊による海戦が行われました。

英巡洋艦「エグゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」が撃沈され、その翌日偶然その場を通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷」によって漂流していた422名の英国軍人が救助されました。

その英断を下したのは、艦長の海軍少佐、工藤俊作でした。
当時「雷」は戦闘行動中であり、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性がり、救助活動は極めて危険極まりない行為でした。

それにも拘わらず、このような状況下で多数のイギリス兵を救助したことは、世界海軍史でも前例がない出来事と言われています。
工藤艦長は実際のところ、海上に漂流者を置き去りにして行っても、誰からも非難されることはなかったのです。

それほど工藤艦長の振る舞いは驚嘆に値する行為でした。
彼は敵兵を友軍以上に丁重に扱い、後に捕虜として大戦を生き残った英国士官に感謝されることになります。

その一人が英国海軍中尉(当時)サムエル・フォール卿でした。
彼は救助された後、インドネシアの捕虜収容所で終戦まで過ごし、戦後は外交官となった人物です。
「人生の締めくくりとして、自身が生きているうちにお礼を言いたかった」と、工藤氏の消息を求めてフォール卿が初めて来日したのは、平成15年10月でした。

フォール卿は80歳を超え人生の総決算として来日し、工藤元艦長の所在を探しました。
しかし消息は見つからず願いは叶えられませんでした。
そこで当時海上自衛隊に勤務していた恵隆之介氏に調査を依頼します。

フォール卿の願いを受けた恵隆之介氏はその3ヶ月後に遺族を見つけ出します。
後にその集大成が恵氏により、「敵兵を救助せよ!」という本として上梓され、世に知られることとなります。

恵氏から工藤俊作氏の話を初めて聞いた甥の七郎兵衛氏は、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙されたそうです。
工藤元艦長は己を一切語らずに昭和54年1月4日に他界されていたのです。

工藤元艦長はこの出来事を家族にも一切語りませんでしたが、その理由について、工藤氏が別の艦船の艦長になった後に「雷」が敵の攻撃で撃沈して乗組員全員が死亡。
多くの部下と戦友を失った悲しみから終戦後は戦友と連絡を一切とらず、余生を過ごしたため、との指摘があります。

ゆえに、自身から一言も触れることは無かったといわれますが、当時の「雷」の航海長を務めていた谷川清澄氏は、「(工藤氏ならきっと)俺は当たり前のことしかやってないんだ。別に褒められることでもない、と言ったと思います。そういう人でした」と証言しています。

それでは工藤俊作はどのような人物だったのでしょうか。
明治34年山形県置賜郡屋代村の農家に生まれました。
祖父は士族に負けない程博識で、工藤はこの祖父から多大な影響を受けました。

工藤は中学を経て海軍兵学校の51期に入学します。
性格はかなり控えめで、実にシャイな男であったと言われていますが、体格はかなりな大柄で柔道は三段、誰も彼にケンカをふっかける者はいませんでした。

兵学校時代の校長は、後に最後の戦時内閣首相となった鈴木貫太郎でした。
校長は、鉄拳制裁を禁じ、自由闊達な気風を重んじていました。
工藤も鈴木校長からの薫陶を受け、彼の方針に倣ったのではないでしょうか。

兵学校を卒業した工藤は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任しますが、そのときの訓示です。
「本日より、本官は私的制裁を禁止する。特に鉄拳制裁は厳禁する」

この時代の下士官兵の間での体罰・いじめは当たり前で、トップでもそれを見て見ぬ振りをしていましたから、これは極めて珍しい処置と言えます。
このような新艦長を、当初「軟弱」ではないかと疑ったそうです。

ところが工藤艦長には決断力があり、官僚化していた上官に媚びへつらうことはまったくない。
しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、士官兵の区別なく酒を酌み交わす。
工藤艦長は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員はこの艦長にたちまち魅了されていきました。

工藤艦長は、日頃から士官や先任下士官に「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていました。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、当人を呼んで「その注意力は立派だ」と褒めました。

このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告するようになったとか。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤艦長をオヤジのように慕い、「オラガ艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになったそうです。

このようにして醸し出された艦内の雰囲気が乗組員の士気と練度を高め、約一年後、ジャワ海での敵兵救助という歴史的偉業を果たすことになるのです。

昭和17年8月、工藤は「雷」から駆逐艦「響」艦長に転任することになり、同年11月には中佐に進級します。
「響」でも親父肌な工藤艦長は乗組員に慕われ、和気あいあいの雰囲気の中で勤務します。

しかし、そのうち体調を崩し、横須賀の陸上勤務となり後半は病気がちとなります。
戦後の工藤艦長は、クラス会も行事もすべて断り、死んでいった同期や部下の冥福を毎朝祈るという慎ましい生活を送っていたそうです。
そして、昭和54年胃ガンのため逝去、享年78の生涯を閉じました。

平成10年4月フォール卿は英タイムズ紙にこの実話を投稿しました。
この年の5月には今上天皇が訪英される予定があり、元英軍将兵らによる訪英反対と謝罪を求める動きがありましたが、フォール卿の投稿文はその一部世論を沈黙させたのです。

平成20年12月7日、戦後外交官として活躍したフォール卿(当時89歳)は埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作中佐の墓前に車椅子で参拝し、66年9ヶ月ぶりに積年の再会を果たします。

フォール卿は、大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたくて、戦後、その消息を探し続けてきましたが、関係者の支援の結果、ようやく墓所を探し当てたのです。

フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。
これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからです。

フォール卿は、その日の出来事を振り返り、次のように語りました。
「救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。彼ら(日本兵)は敵である私たちを全力で助けってくれたのです」と。

「たとえ戦場でもフェアに戦う。困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです」と。

付き添いの娘婿ハリス氏は、「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化を形成している」と語りました。
しかしその5年後(平成26年)の1月、フォール卿も95年の生涯を終えます。

工藤艦長の英断は戦後、米海軍をも驚嘆させています。
米海軍は昭和62年、機関紙「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって載せました。
同紙は世界海軍軍人が朗読していて国際的に大きな影響力を持っているといわれます。

そんな「武士道」を示した軍人がいたことは日本人として誇らしい限りです。
武士道とは「己の正義に値するものに忠誠を誓い、名誉のためには死を恐れない」ことだとか。
まだまだ他にも戦時中の武士道にまつわる話はたくさんあります。
順次紹介してまいりましょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺