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法話

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法話--平成22年5月--

十大弟子(阿那律尊者)--三学--

今回は阿那律尊者(アヌルッダ)のお話です。

アヌルッダは釈尊と同じ釈迦族の出身で釈尊の従弟だといわれています。
ある日釈尊が祇園精舎で説法されている最中に彼はつい居眠りをしまいました。
釈尊に「あなたは道を求めて出家したのではありませんか。
それなのに説法中に居眠りをするとは、一体出家の決意はどうしたのですか」と、叱責されてしまいました。

それ以後彼は釈尊の前では決して眠らないことを誓い不眠不臥の修行をしました。
その厳しい修行のせいかは分かりませんが失明してしまたんです。
釈尊は眠ることをすすめたのですが固辞したのです。
彼はそのかわり肉眼では見えないものを見通す力、即ち「天眼」(智慧の眼)を得、「天眼第一」と称せられるようになりました。

こんな逸話が残されています。
ある日阿那律尊者が衣のほころびを繕おうとして、針に糸を通そうとするのですが、どうしても通りません。
彼は「どなたか私のために針に糸を通してくださいませんか」とお願いしました。
すると、「私が功徳を積ませていただきましょう」と釈尊ご自身が申し出られたのです。
その阿那律尊者がある日釈尊に修行について質問されました。

阿那律

「世尊よ、修行にはどのような心得が大事でしょうか」

世尊

「修行の実践には三つの基本があるのだ。それは三学といって戒(かい)・定(じょう)・慧(え)である。つまり三種類の実践行をいうのだ」

阿那律

「その戒・定・慧についてご説明願えないでしょうか」

世尊

「戒とは戒律のことであり、仏教徒たるものが日常生活の中で守るべき規則として私が定めたものだ。
もっとも出家と在家、男性と女性、大人と子どもといった違いがあるので立場によって戒律の数は違っているが、基本的なものはかわらない」

阿那律

「それでは、それらの戒律の中で、すべての弟子に共通しているものはなんですか」

世尊

「まず主なものが五戒である。
殺してはならない、不殺生戒。
姦淫してはならない、という不邪淫戒。
盗んではならない、という不偸盗戒(ふちゅとうかい)。
嘘をついてはならない、という不妄語戒(ふもうごかい)。
酒を口にしてはならない、という不飲酒戒」

阿那律

「前の四つの戒はよくわかるのですが、どうして酒はいけないのでしょうか」

世尊

「酒そのものが悪いのではない。問題は酒によって理性が歪められるからである。
言うまでも無く人は理性の欠如によって過ちを犯すからである」

阿那律

「世尊よ、それでは飲みすぎさえしなければよいのではないでしょうか」

世尊

「いったいだれがその量を決められるであろうか。
少しだから良いとなれば自分の勝手に判断して歯止めを失うのが人間なのだ。
だから特に酒は量の多少に関わらずダメだと知るべきなのだ」

阿那律

「人間の欲望に限度が無い以上、戒律で縛らない限り、なかなか守られないということですね。
では、二つ目の『定』というのはどのような実践修行なのですか」

世尊

「定とは禅定(ぜんじょう)のことで、精神の統一と集中を意味しているのだ。
悟りは精神の統一の中にあり、その姿が坐禅なのだ。
また、日常生活の中で何をする場合にも精神を集中することこそ大事でありその基本が禅定なのだ」

阿那律

「例えば食べるときは食べることに、歩くときには歩くことに、作務をするときには作務に集中すれば、それが禅定ということになるのですね」

世尊

「その通りだよ。
ただし、忘れてならないことは、戒律によって禁じられていることに心を集中したのではなんにもならない、ということだ」

阿那律

「ところで世尊、三学の最後の『慧』というのは、智慧のことだと思いますが、どうして智慧が実践修行になるのですか」

世尊

「その疑問こそ大事なのだ。
言うまでもなく智慧とは『さとり』のことである。
しかし『さとり』は単なる目的ではないということである。
ふつう『目的』は達成すればその時点で終わりになる。
だから、さとりが目的になれば、さとった時点で修行が必要でなくなるということになる。

さとりに終わりがあっては決してならないのである。
なぜなら、人間は生きている以上生活に終わりがないからである。
つまり、終わりのない『さとり』の実践がなければ意味がないのだ。
その『終わりのないさとり』の実践こそ『智慧』と言うのである。

だからこそ私自身も、私の弟子達も毎日修行を重ねているのである。
悟りだけを法とは言わない。法とはさとりの実践、つまり智慧を言うのである。
私が説く法こそ智慧である。

田を耕す者が秋に収穫を得るために、まず春のうちに田を耕し、種をまき、水をやり、雑草を取り除き、日々に大切に育てるように、真の悟りを求める者は、必ずこの三学を学ばなければならない」

阿那律

「戒律・禅定・智慧の三学は、別々のものではないということがよくわかりました。
悟りと言う種を必死で守り育て上げるということは、自分自身がさとりの種であることをしっかり自覚することですね」

真の悟りを智慧と言い、その智慧を「天眼」と言う。
阿那律尊者は視力を失ったが、肉眼では見えないものを見通す「天眼」を得たのです。
天眼は一つの例かもしれませんが、人間には途轍もない才能があるものです。

最近もっとも感動した人は、全盲の天才ピアニスト、辻井伸行さんです。
昨年アメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝していきなり時の人となりました。弱冠まだ21歳です。

全盲であれば当然楽譜は読めません。
しかしすべて耳で聴いてどんなクラシック曲でも自分のものにしてしまうのです。
私は音楽に疎い人間ですが、その凄さにただただ驚くしかありません。

彼の凄いところはその技術だけではありません。
眼で見えない情景だけではなく、人の心情さえ読み取って音楽(ピアノ)で表現してしまうのです。

天才と言ってしまえば、すんでしまうことかも知れませんが、彼はまさに「天眼・心眼」の持ち主であるということが言えるのかもしれません。
人にはそれぞれが持っている才能があり、それを信じて前向きに生きる勇気を教えてくれています。

合掌

曹洞宗正木山西光寺