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法話

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法話--令和2年10月--

太平洋戦争の真実 その7 ―人徳の将 今村均陸軍大将 ―

太平洋戦争時、孤立無援となったニューブリテン島ラバウルで、10万人の将兵を正しく導いてその命を守り、戦後は自ら望んで部下たちのいるニューギニアの刑務所に入り、戦後は自ら築いた「謹慎所」で戦死者の冥福を祈り続けた軍人がいました。

今回は、そんな人徳の将、今村均のエピソードです。
1942年(昭和17年)3月1日、今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千でインドネシア、ジャワ島上陸を敢行。わずか9日でオランダ軍を全面降伏させました。

村の長老が今村中将にたずねました。
「この国では何百年も昔から『いつか北方から同じ人種の強い軍団がやってきて、トウモロコシが実りをつけるまでに我々の自由を取り戻してくれる』と言い伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。言葉は違っていますが」

それはインドネシアに長く言い伝えられたジョヨボヨの予言のことでした。
今村は答えました。
「われわれ日本民族の祖先には、この国から船で日本に渡った人もいます。みなさんと日本人は兄弟です。我々はみなさんに自由をもたらすために戦うのです」

ジャワの統治をすることとなった今村が、まず行ったのがオランダにより収監されていた独立運動家の釈放でした。
このとき釈放された人のなかには、のちに初代インドネシア大統領になるスカルノもいました。

その後も今村は、現地民の生活に配慮した統治を実行します。
・各所に学校などの施設を建設
・禁止されていたインドネシアの独立歌の解除
・インドネシアの独立歌のレコードを日本で作り現地人に配布
・元支配者のオランダ民間人も、自由に住宅地にすめるようにする
・捕虜となったオランダ軍人は敵対行動をしない限り自由な交流を許す

今村の軍政は自由なもので大成功し、ジャワの生活は天国のような快適なものでした。
しかし、日本政府内には今村の軍政に不満を抱く者がいて、政府高官を派遣してジャワの実情を調査しました。が、調査結果は次のようなものでした。
・原住民は日本人に親しみを寄せている
・オランダ人は敵対を断念している
・治安状況、産業の復旧状況がずば抜けて良い
・軍事物資調達の成果が良い
調査団は今村の軍政を絶賛します。

しかし、陸軍中央には「占領地には武威を示すべき」と考える者も少なからずいて、1942年11月20日、今村は第8方面軍司令官として、ニューブリテン島のラバウルに転属となります。

連合艦隊司令官の山本五十六と親交があり、戦局について話し合ったりして戦局を分析。
いずれ日本からの補給が途絶えることを見越して、自給自足の持久戦を考えます。

まずは日本から野菜や畑でも栽培できる稲の種を持ち込み、焼き払ったジャングルで栽培を開始。自ら率先して鍬をふるいます。
兵一人当たり200坪の耕地面積を開拓し、鶏も一人10羽ずつ飼うように命じます。
その結果、ラバウルに7,000町歩にも及ぶ広大な耕地が生まれるに至りました。

また今村は、農地開墾と並行して要塞の構築も開始します。
将兵たちを励まし、総員を戦力化する軍事訓練と、島全体を要塞化するための地下工事を推し進め、地下要塞の全長はなんと実に370㎞、東京から岐阜県大垣間の距離に匹敵する規模に及ぶのです。

地下要塞は400機以上の空襲にも耐えられ、この中には5,000人以上収容可能な病院や発電設備、通信施設、兵器弾薬の生産工場までありました。
「これならやれる。100年戦争をしてやろう。食料が豊かで軍備の充実した『今村王国』をつくって、頑張ろうじゃないか。」将兵たちはそれを合言葉に一致団結していきます。

今村は階級を越えて部下たちに気さくに声をかけ、それが多くの将兵に親近感を抱かせ、「この人のためならば」という気持ちを起こさせたといいます。
「勝ち目のない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」今村はこう語り、自給自足により多くの日本兵を救ったのです。

実際、日を追うごとに要塞として防備が整っていくラバウルに対し、連合軍側も無理攻めしては大けがしかねないと判断、周辺を固めつつも、ラバウル攻略はあきらめました。

今村のラバウル生活は3年半に及びます。
その間、将兵たちを一つにまとめあげますが、終戦の詔勅が知らされた夜、事件が起こりました。
青年将校らが、「本国が降伏した以上、我々は『今村王国』を建設して戦うべきだ。武装解除すべきでない」と決起を図ったのです。

これに対して今村はなだめます。
「君たちは、ラバウルに難攻不落の要塞を見事に築き上げた。そんな優秀な人材たちが、ここであたら命を失っては、日本の再起は覚束ないじゃないか。ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、帰国して国の復興にこそ役立ててほしい」。

そして今村は武装解除後、オーストラリア軍のキャンプに押し込められると、豪軍に交渉して、復員後の将兵たちの知識となるよう技術や経済の講座を開き、学べるようにしました。

今村はその後、戦犯として軍法会議にかけられ、オーストラリア軍の裁判で死刑にされかけますが、現地の人々の証言などから、禁固10年の判決が下ります。
オランダ軍による裁判では、インドネシア住民たちが助命嘆願運動を行い無罪となります。
運動の中心にはあのスカルノもいました。

禁固刑となり巣鴨拘置所にいた今村は、「自分だけ環境の良い東京にいることはできない」としてマッカーサーに直訴し、マヌス島の旧部下とともに服役することを望みました。
マッカーサーは「日本にきて以来初めて真の武士道に触れた思いだった」と言ってこれをすぐに許可しました。

刑期を満了し、日本に戻った今村は、「今村均回顧録」を出版。印税すべてを戦死者や戦犯刑務所死者の遺族のために使いました。
中には遺族と偽ってお金を要求する者もいましたが、「戦争中に多くの部下を死地へ送った身、黙って騙されなければいけません」と言って咎めることはありませんでした。

武士道精神を体現したかのような今村均は、1968年(昭和43年)に82才でその生涯に幕を下ろしました。
温厚で高潔な人柄で、その人柄やエピソードは、今日でも旧占領国の現地住民のみならず、敵国であった連合国側からも称えられています。

戦後、今村は裁判で連合国側から戦争指導者として責任を問われたとき、法廷で以下のように主張しています。
・敗者のみ裁き、戦勝国の行為に触れていない
・国際法に基づいていない
・日本軍首脳部に責任がある事柄について、下級者のものを罰している
・証拠能力の薄いただの伝聞を採用し、有効な証拠として扱っている
・戦時中の異常心理を無視して、平常の考え方のみで裁いている

今村は自分のためではなく、不当な裁判を受ける部下を救うためにこれらの主張をしました。
今村の主張する、「敗者のみ裁き、戦勝国の行為に触れていない」の意味からすると、アメリカの行ったあの東京空襲や原爆投下は明らかに国際法違法です。

「戦時中の異常心理を無視して、平常の考え方のみで裁いている」そんな東京裁判の間違った真実をこれから歴史が明らかにしてくれることを切に願って止みません。

合掌

曹洞宗正木山西光寺