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法話

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法話--平成23年8月--

十三仏(釈迦牟尼仏)--その5 七つの法--

「当たり前」のありがたさ

ごく最近、一人のおじいさんが当山を訪れました。
聞くところによれば、福島県の双葉町からこの館山で避難生活をされている家族で、自分は81歳になるとのこと。

放射線で、自宅の仏壇にも檀那寺にもお参りできないことで気持ちが落ち着かず、お盆が過ぎた今、居ても立っても居られず、同じ曹洞宗のお寺を探してこちらへお参りに来たとのことです。

本堂にご案内し、ご本尊さまにお線香を手向けられたら「これでやっとほっとしました」といって安心されていました。
暫し、福島の悲惨な現状を伺いましたが、返す言葉に窮しました。

今回の大震災と原発事故から、"当たり前"の生活がどれほど"有難かった"か、思い知らされました。
「当たり前」を「当然」として受けとめてきた多くの日本人は、今こそその認識を改めるべきでしょう。

「当たり前」が「当たり前」でなかったと気づいたとき、人ははじめて感謝の気持ちになれるのです。
すなわち、「有ること難(がた)し」の「ありがとう」になるのです。
人はみんな"有り難し"の中で生かされているからです。

水も空気も、大地も海も空も、大自然は人間にとって決して当たり前の"私物"ではないのです。
古来、人は大自然を敬い、その恵みに感謝し神殿を祀り絶えず報恩の気持ちを捧げてきました。
それが近来、科学の発展に伴い万事人間優先の便宜至上主義の結果大自然をないがしろにしてしまいました。

その奢りの最先端にあったのがまさに原子力でしょう。
もし大自然を敬う心があれば、原発をこれほどまで過信することは無かったでしょう。
多分会社にも発電所にも自然を敬い安全を祈願する大神宮様や守護神様は祀られてはいなかったでしょう。(これは想像です。間違っていたらごめんなさい)

これまで、われわれは豊かさの限度を忘れて、空気も水も食糧も、電気も石油も「当たり前」のこととして浪費してきました。
ところが、空気も水も食料も、電気も石油も実は「当たり前」のものではなかったと気づかされたのです。

人は「当たり前」でないと分かったときに「ありがとう」の気持ちになれると言いましたが、実はそれに加え自分自身の存在も、置かれている環境の全てもまさに「有り難い」存在なのです。
だから、人は絶えず神仏に感謝することを怠ってはいけないのです。
報恩感謝の心無くして神仏のご加護と幸福は得られません。

七つの法

釈尊はネパールのルンビニーで生誕され、悟りを開かれた後、各地を巡錫されましたが、その活動の場は主にガンジス川の中流域でした。
釈尊がラージギルの霊鷲山において説法をしていた頃のことでした。

当時この辺りで最も強国であったのがマカダ国でした。
そのマカダ国からガンジス川を隔てて繁栄していたのがヴァッジ族でした。
共和制が敷かれ商工業が栄え非常に裕福な部族でした。

マカダ国の王はその隣国を疎ましく思い攻め滅ぼそうと考えたのです。
そこで、マカダ国王は釈尊のもとに使者の大臣を遣わして、その是非を尋ねました。
釈尊は直接大臣にはお答えにならず、弟子のアーナンダを介してヴァッジ族が繁栄している理由を七つ挙げて質問をされたのです。

  • 1.ヴァッジ族の人々はよく集会を開き、正しいことを論じているか
  • 2.君主と臣下が協力し、身分の上下を弁えお互いに尊敬し合っているか
  • 3.法律を遵守し、礼節を重んじているか
  • 4.父母に孝行を尽くして目上のものを敬っているか
  • 5.部族の霊域を敬い、祖先の供養をよくしているか
  • 6.男女間の礼節をよく守っているか
  • 7.尊敬されるべき出家者たちに正当な保護と支持を与えているか

これらの質問に対して、特派の大臣はすべて、「はい、その通りです」と答えたのです。
これを受けて釈尊は「ヴァッジ族がこの7つの法を守っているあいだは、彼等はいっそう繁栄し衰えることはないだろう」と言い、暗にヴァッジ族を滅ぼすことは許されないことだと説かれたのです。

おそらくは、釈尊にはコーサラ国によって無念にも滅ぼされたわが愛しの釈迦族の因果を鑑みての強い思いがあったに違いありません。
ヴァッジ族はまさに釈尊の威光と見識によって救われたのでした。
この7つの法をあらためて見てみると今の時代にもそっくりそのまま適用する実に大事な道理だということがわかります。
今一度これら7つの意味を吟味してみる価値はありそうです。

1. ヴァッジ族の人々はよく集会を開き、正しいことを論じているか
人の集団の中で正しいことが論じられなければ民主主義社会ではありません。 しかし、当時から2500年経た現代でさえ民主主義は難しいのです。 エジプト、リビアなどやっと民主化されましたが、まだまだ非人道的独裁国家は存在するのです。
2. 君主と臣下が協力し、身分の上下を弁えお互いに尊敬し合っているか
どんな国家社会でも指導者がいて、指導される民がいるのです。 大事なことは基本的人権が尊重されているかどうかです。
3. 法律を遵守し、礼節を重んじているか
法律や義務は社会秩序のためには絶対必要不可欠のものです。 さらに礼節は道徳文化の規範であり、個々の尊厳と民族の誇りを表すものです。 倫理と誇りを失った社会こそ犯罪社会なのです。
4. 父母に孝行を尽くして目上の者を敬っているか
父母への敬意と孝行こそ倫理道徳の原点です。 かつての日本は三世代家族が当り前でしが、現代は核家族が普通になってしまいました。 子や孫に孝行の場が無くなってしまったことが、虐待社会の要因になってしまったのです。
5. 部族の霊域を敬い、祖先の供養をよくしているか
部族伝来の土地に守護神を祀り、祖先への報恩感謝を怠らない心です。 信仰心を持つということです。自然や神を崇めない人は魂の拠り所のない人です。 信仰こそ心の拠り所なのですから。
6. 男女間の礼節をよく守っているか
この礼節なくして一家の幸福も一族の繁栄もありません。 現代社会、特に今の日本にこそ一番求められる礼節ではないでしょうか。
7. 尊敬されるべき出家者たちに正当な保護と支持を与えているか
出家求道者が尊敬保護される社会こそ安心社会なのです。 特に仏教では三宝といって、仏、法、僧に先ず帰依することから始まります。 なぜならば、文字通りこの"三宝"こそ人々の救いの拠り所となっているからです。 しかし、この三宝を真に理解し、布教できる人が居ない現代こそ悲しい限りです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺