樋口季一郎は陸軍時代3つの奇跡を起こしたとされています。
2万人以上ともいわれるユダヤ人難民の命を救った「オトポール事件」、アリューシャン列島キスカ島から孤立無援の守備隊約5,200名を無血撤退させた作戦、さらに千島列島最北端の占守島(しむしとう)を死守しソ連軍の侵略から北海道を守り、日本を「分断国家」から救ったのです。
最初のオトポール事件から見てみましょう。
ナチスの迫害に苦しむユダヤ人を救った日本人といえば、外務省の意向に反してユダヤ人難民にビザを発行し、「東洋のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝が有名ですが、それより2年以上前に、多くのユダヤ人の命を救った日本人がいたことはあまり知られていません。
ドイツ・ナチスによる迫害から逃れるため、ドイツを脱出しヨーロッパ各地で難民となった多くのユダヤ人達は、隣国のポーランドに向かいましたが、ドイツの目を気にしたポーランド政府は受け入れを拒否しました。
ソ連からも受け入れを拒否された彼らが行き着いたのが、ソ連と満州との国境に位置する、シベリア鉄道ザバイカル線終点オトポール駅でした。
彼らの目的は、ここから満州国に入り、当時世界で唯一ユダヤ人難民をビザなしで受け入れていた上海に行き、アメリカやオーストラリアに渡ることでした。
満州国の実態は、日本の傀儡政権であり、ドイツの国策に反する行動をとることを躊躇していました。
そんな状況下にありながらユダヤ人たちに救いの手を差し伸べたのが、日本陸軍の樋口季一郎少将でした。
彼は、陸軍士官学校ではドイツ語やロシア語を学び、他にもポーランド語やフランス語など話すことができました。
特務機関員として、ウラジオストクやハバロフスクに派遣され情報将校として道を歩んでいました。
1925年、武官としてポーランドへ赴任した樋口は、社交界にも出入りするなどして人脈を広げていきます。
その幅広い人脈が功を奏し、当時入国制限が厳しく、外国人がめったに入ることのできないソ連領内への視察が認められました。
ウクライナなどの視察旅行中、グルジアの貧しい集落に立ち寄った時、一人の老人が樋口に声を掛けてきました。
その老人は、樋口が日本人だとわかると家に招き入れ、話を始めました。
「日本人は、ユダヤ人が悲しい目にあった時救ってくれるに違いない。日本の天皇こそがユダヤ人を救う救世主なのだ。自分はユダヤ人であり、ユダヤ人は世界中で迫害されている」と涙ながらに訴えたのです。
樋口とユダヤ人との交流は、陸軍大学を卒業してすぐ、ウラジオストク特務機関員としてロシアに派遣された時に始まります。
樋口はロシア系貿易商の家の一室を住まいとし、そこでの交流を通してユダヤ人に関心を持ち、ユダヤ人に関する研究も行っていました。
そんなユダヤ人のことをよく理解している樋口だからこそ、グルジアの老人の言葉を真剣に受け止めたのでしょう。
さらに、1937年に視察旅行に出かけたドイツ・ベルリンでは、ナチスによるユダヤ人迫害の現状を目の当たりにしました。
1938年(昭和13年)3月8日、樋口少将のところにオトポールにユダヤ人難民が逃げてきているという報告がもたらされます。
極東ユダヤ協会の会長で医師でもあったアブラハム・カウフマン博士が、樋口少将のもとに彼らの救済を求めてきたのです。
ハルビンはもともとユダヤ人が多く住む町で、オトポール事件の3ケ月前には第一回極東ユダヤ人会議が開催されています。
このときも、ドイツとの関係を懸念して大会を中止させるべきという声が樋口少将のもとに届きますが、樋口少将は大会の開催を認め、当日は自らも出席しています。
ここでユダヤ人を擁護する演説を行い、会場からは大きな拍手が起こりました。
このとき、記者から「ユダヤ人を支援することは日独伊の同盟関係に水を差すのでは」と聞かれた樋口は、「祖国のないユダヤ人に同情することは日本の国是であり、日本人は昔から、義をもって弱気を助ける気質がある」と答えていました。
そうした縁もあり、カウフマンは樋口少将なら、ユダヤ人難民を救ってくれるのではと考えたのです。
そこで、樋口はすべての覚悟を決め、決断を下します。
これは人道上の問題であるとして、満州国外交部に働きかけてビザを発給させるとともに、満州国や上海租界への移動の斡旋を行います。
南満州鉄道総裁の松岡洋祐を説得し、ユダヤ人難民をハルビンまで輸送する無料の特別列車を走らせました。
樋口少将の働きかけにより、満州国外交部はユダヤ人難民に無条件で5日間の滞在ビサを発行することになりました。
杉原千畝の「命のビザ」より2年以上前、樋口少将による「命のビザ」で多くのユダヤ人難民たちが満州国に逃れることができたのです。
この脱出ルートは「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、これによって救出されたユダヤ人の数は一説には2万人~3万人ともいわれます。
ドイツは日本政府に対する公式な抗議を行い、これに驚いた日本の外務省は、ただちにその抗議文を陸軍にも送りました。
これをみて、外務省、陸軍内では、樋口少将の行動は独走と批判され、彼に対する処分を求める声が高まっていきます。
樋口は関東軍司令部から出頭を求められます。
これに対し、樋口は、「自分は決して間違ったことはしていないと信じている、満州国は独立国であり、当然のことをしたまでである。たとえユダヤ人迫害がドイツの国策であろうとも、このような人道に反する行為に屈するわけにはいかない」という内容の手紙を送り、さらなる波紋を呼びました。
樋口少将は、関東軍司令部に出頭し、関東軍総参謀長東條英機と面会します。
樋口は、「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることを正しいと思われますか」と、堂々と自分の正当性を主張し、これに理解を示した東條は、この件を不問としました。
その後も、ドイツからは再三にわたって抗議文が届きましたが、東條はそれを「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と、すべて一蹴したということです。
特務機関に在籍していた樋口少将は、戦後、スパイ容疑により、ソ連からの身柄引き渡し要求を受けることになります。スターリンからの直々の命令により、樋口は「戦犯」に指名されることになったのです。
このとき、樋口少将を救ったのが、かつて彼に助けられたユダヤ人たちでした。
ヒグチルートで脱出したユダヤ人を中心に、樋口少将を助けるための運動が起き、世界中のユダヤ人コミュニティーがこれに協力しました。
ニューヨークに本部を置く世界ユダヤ協会は、ソ連からの要求を拒否するようアメリカ国防総省に訴え、欧米のユダヤ人金融家はロビー活動を行いました。
世界ユダヤ協会幹部の中にも、樋口少将によって命を救われた人がいたといいます。
この運動の結果、ダグラス・マッカーサーは、ソ連からの要求を拒否し、樋口少将は救われたのです。
これほどまでにユダヤ人から感謝されていた樋口少将のオトポール事件ですが、その功績に反して、杉原千畝の名前と比べて、現在の日本ではあまりにも知名度が低いといえます。
これは、樋口少将が旧日本軍の軍人であったことも関係していると考えられます。
しかし、かつて国際情勢や自分自身の立場も顧みず、自らの正しいと信じることを貫き、多くの人々の命を救った樋口少将のような日本人がいたという事実は、これからも伝えていくべきものでしょう。
合掌