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法話

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法話--平成20年10月--

こころ(4)-- 菩薩の行願 --

「若(も)し菩提心を発して後、六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転(りんてん)すといえども、その輪転の因縁、みな菩提の行願となるなり。
然(しか)あれば従来の光陰は、たとい空く過ごすというとも、今生(こんじょう)の未だ過ぎざるあいだに急ぎて発願すべし。

たとい仏に成るべき功徳、熟して円満すべしというとも、なお廻(めぐ)らして衆生の成仏得道に回向するなり。
或いは無量劫(むりょうこう)行いて、衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度たし衆生を利益するもあり。」
(修証義・発願利生)

「若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転すといえども、その輪転の因縁、みな菩提の行願となるなり。」 「六趣四生」の六趣は六道のことです。
「六趣」の趣はそれぞれの業報によって趣き住む処という意味です。
「四生」は、この世に生きとし生けるあらゆる生物をその生まれ方の上から、胎生・卵生・湿生・化生の四つに分類したものです。
これはいわば仏教における生物の発生学的分類とでもいうべきものです。

人間のような高等動物からウジ虫のような下等生物にいたるまで、おおよそ生物は、この四生のうちの何れかに属しているのです。
つまり「四生」とはありとあらゆる生き物という意味です。
「輪転」は「輪廻転生」を二字に切り詰めたものです。
人はあたかも車輪の廻転するが如く生と死を幾度となく繰り返し続けるという意味です。

この句を解りやすく書き直してみましょう。
「もし、菩提心を発こした後であれば、たとえ六道の何れの世界に生まれ変わろうとも、また四生の何れのものに生まれ変わろうとも、その者には衆生済度の誓願と実行が営まれるであろう。」ということです。

つまり、菩薩道を行く者は、地獄道であろうが餓鬼道であろうと、どんな世界であろうとも衆生済度の誓願を携えている限り、その者は菩薩の立場にあるのです。
「自未得度先度他」を行願とする菩薩となったからには、たとえ地獄や餓鬼道へ往生しようとも、それは迷いの輪廻転生ではなく、衆生済度のための転生というべきものなのです。

「然あれば従来の光陰は、たとい空く過ごすというとも、今生の未だ過ぎざるあいだに、急ぎて発願すべし。」「然あれば」というのは、「発菩提心には、以上述べてきたような深妙不可思議の大功徳があるのだから」という意味です。

「従来の光陰は、たとい空く過ごすというとも」とは、「これまでの人生のうち、欲望の虜となり、いたずらに空しい日々を過ごしてきたとしても、」という意味です。
「今生の未だ過ぎざるあいだに、急ぎて発願すべし。」とは、「今の人生の命のあるあいだに急いで発心を決心しなければならない。」という意味です。

「たとい仏に成るべき功徳、熟して円満すべしというとも、なお廻(めぐ)らして衆生の成仏得道に回向するなり。或いは無量劫(むりょうこう)行いて、衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度たし衆生を利益するもあり。」

「仏に成るべき功徳、熟して円満すべしというとも」というのは、「仏教の最高目的としての成仏の域に到達するために、それ相当の修行を重ね、功徳を積みあげてきて、その「功徳」が熟しきって、すぐにでも成仏できるその時に至ってもなお」という意味です。

「なお廻(めぐ)らして衆生の成仏得道に回向するなり。」 さらに己の成仏は後にまわして、衆生の成仏を先にするために己の「功徳」を衆生の方に振り向ける(回向)ことであるというのです。

「或いは無量劫(むりょうこう)行いて、衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度たし衆生を利益するもあり。」 「無量劫」の「劫」とは時間の単位ですが、千年とか万年とかいう程度のものではなく、計算仕様もないほどの遠大な時間のことです。
ここで「劫」について説明しておきましょう。

その説として「盤石劫」(ばんじゃくごう)と、「芥子劫」(けしごう)というものがあります。
「盤石劫」とは、四十里立方の石があり、天女が百年に一回舞い降りてきて、その羽衣の袖で一度その石を撫でて、ついにその石が摩滅してしまうまでの時間を一劫というのです。

「芥子劫」とは、四十里立方の倉の中に一杯詰めてある芥子の実を、天女が百年ごとに舞い降りてきて一粒ずつ持ち去り続けて、倉一杯のその芥子の粒がすっかり無くなったときが「一劫」だというのです。

まことに気の遠くなるほどのスケールの話ですが、「無量劫」となると、その一劫が無量倍ということになるのです。
まあ結局は限りない永遠の時間とも言うべきものでしょう。
因みに、教典によく出てくる「阿僧祇劫」(あそうぎこう)の「阿僧祇」も「無数」という意味であり、「無量劫」と同じ意味です。

ついでに申し上げると、億劫と書いて「おっくう」と読みます。
劫が億もあったらその時間の長さを考えただけですっかり「やる気も気力も無くなってしまう」のです。
「無量劫行いて、」とは、「自未得度先度他の心」を心とする「菩提の行願」を、「無量劫のあいだ行じ続けて」、という意味です。
「衆生を先に度して自らは終に仏に成らず」とは、「己以外の衆生を先に度(わた)らせて、己自身は迷える衆生が尽きない限り、永遠に成仏しない」という意味です。

「但し衆生を度たし衆生を利益するもあり。」但しは「ただひとすじ」という意味です。
「衆生を度たし衆生を利益するもあり。」「度す」とは何度も言っているように「成仏」させることです。
「利益」(りやく)とは利益(りえき)を与えるという意味ですが、精神的に安心立命させることです。

ここでいうところの「利益は」とはお金が儲かるとか、病気が治るとかの浅はかな現世利益のこととは違います。
ここを是非誤解しないでいただきたいと思います。
真のご利益(ごりやく)とは、仏教の教えである仏法の智慧を身に付けることで、心身ともに「安心」(あんじん)することなのです。

さて、本節の説明も随分長くなりましたが、ここでまとめに入ります。
菩薩の「行願」とは、永劫に亘って、この世の一切衆生を最後の一人まで、ただひたすらに救わんとするものであり、その悲願が達成されないうちは決して己から成仏することはないとする、その「心」のことです。

すなわち一切衆生をことごとく成仏させるまで永劫に六道輪廻をされているのが 「菩薩」であるという、この菩薩の「行願」の心こそ仏教の奥義なのです。
仏教がなぜ素晴らしい宗教かを一言で表すとすれば、私はこの「菩薩の行願」に尽きると思っています。

人間には地獄の心、餓鬼、修羅、畜生の心があると同時に菩薩の心があるのです。
現在社会の混迷はこの菩薩の心が失われた結果なのです。
止むことのない虐待、いじめ、詐欺、自殺、殺人。
それらは教育や医療、年金制度の政治に対する不信と広がる一方の格差社会のなかの不平不満と無縁では無い筈です。
さらにサブプライム、リーマンからはじまった経済不況が追い打ちをかけ、あらゆる分野で大切なものが崩壊しつつあります。中でも最も大切な「人のこころ」が崩壊しています。

奇跡の星に生まれ、素晴らしい可能性を持ちながら、欲望と怒りと愚かさという悪趣に取り憑かれて傷つき、傷つけ合う人類。
この状況は人類そのものの「終わりのはじまり」かも知れません。
心の貧困と迷いを早くなんとかしなければなりません。
それには「菩薩の行願」を涵養するしかありません。

合掌

曹洞宗正木山西光寺